【トシ子から姉へ】静寂とも「引導」とも取れる最後通牒を放つ
▶ 現場の静寂、あるいは「引導」
軽部邸のリビングに、月影のタブレットから流れる役員会議室の喧騒が響き渡る。その無機質な音を切り裂いたのは、月影のスマートフォンに届いた一通のプッシュ通知だった。
「――役員会からの緊急停止命令だ」
月影が低く告げると同時に、佐伯部長の部下たちの端末が一斉に震えた。画面に並ぶ『全業務の即時停止・現場待機』の赤文字。人事部の精鋭を自任していた彼らの顔から、一気に精気が失われていく。
彼らは一言も発することなく、まるで操り人形の糸が切れたかのように、トシ子を取り囲んでいた円陣を解き、静かに、しかし迅速に部屋から撤収していった。
残されたのは、月影と村田、そして立ち尽くす軽部昭代と法務OBの二人。
「な、なによ……会社が辞めたって、私は辞めないわよ! 妹の人生をめちゃくちゃにした落とし前、つけてもらうまで……」
昭代がなおも村田に詰め寄ろうと一歩踏み出した、その時。
「――お姉ちゃん」
床に崩れていたトシ子が、村田の差し出した手を借りずに、自らの力で立ち上がった。その目は赤く腫れていたが、中心にある光は、村田がこれまでの対応で一度も見たことがないほど鋭く、冷徹だった。
「トシちゃん、怖くないわよ、お姉ちゃんが……」
「姉さん。……いいえ、昭代さん」
トシ子の声は震えていなかった。
「あなたは私のために怒っているんじゃない。私の後ろにある『お金』と、自分の『正義感』に酔っているだけ。私が村田さんにどれだけ救われたか、一度でも聞いたことがあった?」
「それは……あんたが騙されてるだけで……」
「騙されてるのは、あなたよ」
トシ子は机の上に置かれた『ハラスメント合意書』をひったくると、昭代の目の前で迷いなく引き裂いた。破片が雪のように床に散る。
「私の人生をめちゃくちゃにしているのは、この人たちじゃない。……あなたよ、昭代さん。今日、この瞬間から、あなたとは縁を切ります。二度と私の敷地に入らないで。法務OBの先生も。……もし次に来たら、私があなたたちを訴えます。村田さんを巻き込んだ罪で」
法務OBは顔を真っ青にして後退りし、昭代は絶句したまま口をパクパクと動かした。村田が『特別扱い』で守ろうとするほどに弱気になっていたトシ子は、いつの間にか村田を守れるほど強く、峻烈な女性へと戻っていた。
「行きなさいよ!」
トシ子の怒鳴り声に押されるように、昭代たちは逃げるように部屋を飛び出していった。
静寂が戻った部屋で、トシ子は村田に向き直り、深く、深く頭を下げた。
「村田さん、本当にごめんなさい。……でも、これでやっと、私の『オプション』は終わりました」
村田は何も言えず、ただその姿を瞳に焼き付けていた。背後で月影が、重い溜息とともにタブレットを閉じた。
「……終わったな。現場の対応としては、満点だ」
だが、月影の顔に安堵の色はなかった。これはまだ、巨大な嵐の前の「静止」に過ぎないことを、彼は予感していた。




