つけ狙われる、村田。駆けつける、月影。
▶ 村田の帰宅パート(不穏な予兆)
午後二時。
平日の昼下がりの住宅街は、不自然なほど静まり返っていた。
村田は、逃げるように自宅のアパートへ滑り込んだ。
早退を命じられ、センターの空調から解放されたはずなのに、肺の奥にはまだあの張り詰めた冷気がこびりついている。
(少し休めば、落ち着く……はずだ)
ネクタイを緩め、キッチンでコップ一杯の水を飲む。
だが、静寂が逆に耳に痛い。
ポケットの中で、スマホが震えた。
通知を見るのが怖かったが、仕事の連絡かもしれないという強迫観念が指を動かす。
画面には、見知らぬアカウントからのDM。
『むらたさん。今日はお休みですか? 窓、閉まってますね』
コップを持つ手が、ガタガタと震え出した。
なぜ、自分が今、部屋にいることを知っている?
「窓が閉まっている」という描写は、今まさにこのアパートを見上げている者の言葉だ。
村田は息を殺し、遮光カーテンの隙間から、わずかに外を覗いた。
道路の向かい側。
電柱の陰に、一人の女が立っていた。
派手なスカーフを首に巻き、場違いなほど大きな黒いサングラスをかけている。
軽部トシ子ではない。だが、その立ち姿の執着心は、トシ子のそれと酷似していた。
(……姉さん、なのか……?)
月影が言っていた「三層構造の別件」のひとつ。
軽部トシ子の姉。
彼女はスマホを操作している。その指先が動くたび、村田の手元の端末が震える。
――ピコン。
『見てるんでしょう? 妹をあんなにした責任、とってもらわないと』
村田はカーテンを引きちぎるような勢いで閉め、床に座り込んだ。
「感情福祉インフラ」――佐伯部長の言葉が、呪文のように脳内でリフレインする。
自分はただ、目の前の顧客のために尽くしてきただけだ。
相手が喜ぶ顔が見たかった。
その“善意”が、いつの間にこんな化け物を育ててしまったのか。
不意に、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
心臓が口から飛び出しそうになる。
居留守を使おうと身を固くした直後、ドアの郵便受けの蓋が、カチャリと外から持ち上げられた。
そこから覗いたのは、人の目ではなかった。
スマートフォンのカメラレンズ。
「……村田さん? いるんでしょ?」
掠れた、しかし妙に艶のある女の声。
郵便受けの隙間から、小さな紙切れが数枚、パラパラと室内の床に落ちた。
それは、村田が以前、軽部トシ子に送った「手書きの対応メモ」のコピーだった。
そこには、トシ子を安心させるために書き添えた、村田のプライベートに近い“優しい言葉”が、赤いマジックで執拗に丸で囲まれていた。
『これ、証拠ね。あなたが妹を誘惑した証拠』
村田は自分の喉をかきむしりたくなった。
あの時の善意が、今は自分を縛り上げる縄になっている。
月影の「死ぬなよ」という言葉が、これまでになく現実味を帯びて迫ってくる。
ここはもう、安全な場所ではない。
震える指で、村田は月影の個人番号をコールした。
だが、呼び出し音の背後で、再び玄関のチャイムが激しく連打され始めた。
「村田さん! 開けて! オプションの相談があるの! “特別プラン”の話をしましょう!」
絶叫に近い声が、薄いドアを透過して部屋中に響き渡る。
村田は、ただ暗闇の中で耳を塞ぎ、丸まることしかできなかった。
【緊急事態】月影が村田の自宅へ急行する(実力行使)
――ツーツーという切断音。
月影は、手にしていた端末をポケットに叩き込んだ。
村田からの着信。背後で鳴り響いていた異様なチャイムの連打と、人間の理性を欠いた女の絶叫。それだけで、現場の異常事態を把握するには十分だった。
「臼井マネージャー、車を回してください。村田の自宅へ行きます」
フロアに残っていた臼井が、血相を変えて顔を上げる。
「月影さん、独断で動くのは……!」
「佐伯部長の指示を忘れたんですか。『直接モニタリングしろ』と言ったのは彼女だ。……あれは、もう『相談』の域を超えている」
月影は、普段の冷静な歩調を捨て、エレベーターホールへ駆け出した。
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村田の自宅アパートの前には、異様な光景が広がっていた。
例の女――軽部トシ子の姉が、狂ったようにドアを叩き、郵便受けに指を突っ込んでいる。
「出てきなさいよ! 妹を地獄に落として、自分だけ鍵をかけて逃げるなんて許さない!」
その背後で、数人の近隣住民が遠巻きにスマホを向けている。これがSNSにアップされれば、瞬く間に「マルトクテックの不祥事」として火がつく。自治体や法務OBが手ぐすね引いて待っている結末だ。
そこへ、一台の黒いセダンが急ブレーキの音を立てて止まった。
降りてきたのは、月影だった。
彼は迷うことなく、狂乱する女の背後へ歩み寄る。
「……そこまでにしましょう。軽部さん」
月影の声は、驚くほど低く、そして重かった。
女がぎらついた目で振り返る。サングラスがずり落ち、執着に濁った瞳が露出した。
「あんた誰よ! 部外者は引っ込んで――」
「マルトクテック管理統括の月影です。あなたが現在行っている行為は、刑法第百三十条の住居侵入、および第二百三十四条の威力業務妨害に抵触する可能性があります。すべて記録させていただきました」
月影は手元に持っていたタブレットを、女の目の前に突きつけた。そこには、彼女がこれまで送信してきたDMのログと、今まさに彼女を捉えている車載カメラの映像が映し出されていた。
「な、なによ。私は妹のために……!」
「妹さんのため、というなら。あなたが今ここで騒げば騒ぐほど、軽部トシ子さんが受けている“特別な支援”はすべて打ち切られることになります。会社は『反社会的勢力、およびその関係者との接触』を理由に、即座に契約を解除できる。……それを、妹さんは望んでいますか?」
月影の言葉は、熱を持たない刃のように女の喉元へ突き刺さる。
“ロマンスグレー”と称される穏やかな外見の奥から、組織を守るために冷徹な判断を下してきた男の、本物の圧が漏れ出していた。
女の動きが止まる。
月影は一歩も引かず、さらに声を低めた。
「村田は、今日をもって当面の間、弊社の保護下に入ります。これ以上の接触を試みるなら、次は法務部が相手をします。……いいですね?」
女は唇を震わせ、捨て台詞を吐こうとしたが、月影の静かな眼力に圧され、よろよろと後退した。そのまま逃げるように住宅街の闇へと消えていく。
月影は周囲で見守っていた野次馬たちを一度だけ一瞥した。
その視線だけで、彼らは「これ以上はまずい」と察し、散り散りに去っていった。
静寂が戻った廊下で、月影は村田の部屋のドアを、三回、ゆっくりと叩いた。
「村田、俺だ。月影だ」
しばらくして、内側のチェーンが外れる音が聞こえた。
少しだけ開いたドアの隙間から、顔を真っ白にした村田が覗く。
「……つきかげ、さん……」
月影は、強張っていた自分の表情をわずかに緩め、短く息を吐いた。
「言っただろ、死ぬなよって。……とりあえず荷物をまとめろ。ここにはもう置いておけない。会社の用意した『シェルター』に移動させる」
村田は、情けないほど震えながら頷いた。
月影は、村田の震える肩を一度だけ強く掴んだ。
それは、上司としての命令であり、同時に、この泥沼に沈みかけたスタッフを繋ぎ止めるための、唯一の「人間らしい」接触だった。




