「お前、ほんとに倒れるぞって」月影が村田に“再び警告”する日②
午前七時三十九分。
港区センターの自動ドアは、まだ朝の冷たい風を吸い込んでいた。いつもなら七時五十五分ぎりぎりに入ってくる月影真佐男が、今日は一番乗りだった。
エントランスの警備員が驚いたように会釈する。
「おはようございます。……今日は、早いですね」
「まあね」
それだけ言って、月影は打刻機にも寄らず、まっすぐオペレーションフロアに向かった。
こんな時間に照明が全部点いているのはおかしい。夜勤明けが残っているにしても、張り詰めた空気の理由はほかにある。
村田の席――そこだけ、空調の流れが変わっているように感じた。モニター横のメモ紙が乱れている。丸めて捨てたはずの付箋が、何枚も戻ってきたかのように散らばっていた。
椅子の背もたれが落ち着かない角度で止まっている。
いつも几帳面な彼には似つかわしくない。
月影は椅子の脇に落ちていた紙を拾い、息を止めた。
〈軽部の姉〉とだけ書かれた封筒大のメモ。
筆跡は村田のものだ。震えている。前回の“軽部トシ子事件”の時でさえ、村田の字がここまで乱れたことはなかった。
月影がメモを手にした瞬間、背後でドアが開いた。
「あ……月影さん、もう来てたんだ」
村田だった。
目の下にいつも以上に濃い影を落とし、手元のスマホを握りしめたまま立っている。
そこには、未読のままの大量のDM通知が点滅している。
「おはよう。……寝てないな?」
村田は笑おうとして失敗し、目をそらした。
「まあ……ちょっと。あっちからも、こっちからも、連絡が……」
その“あっち”の中身を、月影はすでに知っている。軽部トシ子の“姉”の暴走も、港区の照会も、外部の法務OBによる圧力も――全部まとめて、臼井が夜通しで調査し、月影に共有していた。
しかし村田本人は、何一つ全容を知らされていない。
だからこそ、この状態だ。
見えない何かに殴られ続け、どこからの攻撃なのか見当もつかない。
「話がある。空いてる会議室、行こう」
「え、でも……あと二十分でミーティングが……」
「それはいい。お前のほうが優先」
月影の声は低く、しかし反論を許す隙がなかった。
二人は小さな会議室に入る。
ドアを閉める音が、村田の肩をびくりと揺らした。
「前に言ったよな」
月影は、ゆっくり椅子に座りながら切り出した。
「お前、ほんとに倒れるぞって」
「……はい」
「その時より状況、悪い。はっきり言うけど、かなり悪い」
村田は俯いた。
喉が渇いているのか、唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。
「昨日だけで、夜間アクセス四十三件。全部“お前宛て”に分類されてる。自治体からの照会も来てる。軽部の姉が、お前が“妹を追い詰めた犯人だ”っていう筋書きで動いてるらしい」
「ち、違うのに……」
「違うよ。だから問題なんだ」
月影は机の端を、指先で静かに叩いた。
それは焦りの音ではなく、計算した“間”をつくるための音だった。
「村田、お前に自覚がないまま、どこかの誰かが“お前を材料にして”動き始めてる。SNSも、ブログも、まとめサイトも。名前は出てなくても、特徴でほぼ特定できる書かれ方をしてる」
「……見ました。昨日、検索して。そしたら……“M田”って伏せてあるのに、ここでのミスとか、誰にも話してないことまで……」
「漏れてる。故意にだ」
村田の顔から、一気に血の気が引いた。
「ちょっと、待って……え、じゃ、じゃあ、誰が……?」
「外の線もあるし、中の線もある。そこはまだ断定しない。けどな――」
月影は、初めて目を上げた。
真正面から村田を射抜くように見た。
「お前が“この職場にいることそのもの”が、誰かの計画の邪魔になってる可能性がある」
村田の呼吸が乱れた。
机の端を掴む手が震える。
「そんな……俺、ただ普通に……仕事してただけなのに……」
「それで十分、誰かの利害を踏める世界なんだよ」
月影の声は淡々としていたが、その底には鋭い諦念のようなものがあった。
「もう一度だけ言う。守りきれないラインに近づいてる」
村田がゆっくり顔を上げる。
今にも泣きそうなのに、泣かない。
泣けないタイプの人間の限界が、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。
「……月影さん。俺、どうすれば……」
「今日は早退しろ。臼井と俺で組む。お前は少し距離を置け。“ここにいるとお前が潰される”って、今回は本当にそう思ってる」
村田は息を吸い込み、そして吐いた。
抵抗しようとしたが、声にならない。
彼の目には、恐怖と申し訳なさと、そして小さな希望が同居していた。
「わかった……すみません。ご迷惑、ばっかりで……」
「迷惑なんて思ってねえよ」
月影は、そこでひとつ溜息をついた。
力を抜くためではなく、怒りを押し殺すための溜息だった。
「お前を失ったら、このセンター終わりだからな。だから、退くんだよ」
村田の目に、もう一度光が戻った。
その光は、理解ではなく、信頼のようなものだった。
会議室を出る直前、月影はぽつりと呟いた。
「……再びって言いたくなかったけどな。ほんとは、一回で伝わってほしかったよ」
村田は小さく頷いた。
そしてフロアに戻ると、机の上の付箋をそっと揃え、カバンに入れた。
その背中を見送りながら、月影は胸の奥で呟く。
――臼井。今日は、お前の手も借りるぞ。
相手は、思っていたより根が深い。
それが、月影の“再警告”の朝だった。




