不可思議な土
畑は、見た目だけなら黄金色だった。
風に揺れる小麦は綺麗だ。陽を受けて、波みたいにうねる。
けれど――踏み入れた瞬間、足裏が「違う」と言った。
軽い。ふかふかじゃない。空洞が多い軽さだ。
ツチダはしゃがみ、土をひとつまみ掴んで、指の腹で潰した。
まとまらない。団子にならず、粉みたいに崩れる。
「……保水、弱いな」
呟いた声が、乾いた風にさらわれた。
軽い。
ふかふかじゃない、軽い。土が“空っぽ”の軽さ。
それに表面が妙に固い。雨が降れば流れ、晴れればひび割れる――そんな土の感触がする。
ツチダ・コウヘイはしゃがみ込み、指先で土をつまんだ。
粒が細かい。乾いている。指の間からさらさら落ちる。
――根が張れない。
嫌な予感が、背中に貼りついた。
◇
目を覚ましてから数日が経った。
ここは「レイト村」という農村らしい。人口は三百人ほど。
見渡す限り畑が広がっていて、村の周りをぐるりと囲むように麦が植えられている。
この世界では「アーネンエルベ帝国」という国の東端に位置する村だと、村長が教えてくれた。
白髪まじりで穏やかな笑みを浮かべるのに、目だけは妙に鋭い人だった。
ありがたいことに、この世界の言葉はなぜか理解できる。
“旅の途中で事故に遭い、記憶を失った”――そう説明したら、みんな妙に納得してくれた。
食事は麦粥と干し肉、それに野菜の煮込み。素朴だが滋味がある。
味噌も醤油もないのに、匂いだけはどこか懐かしい。
……いや、懐かしいのは味じゃなく、素材の匂いだ。
土と火と、穀物の甘い香り。農家の台所の匂い。
村人たちは朝早くから畑に出る。
子どもも、女も、老人も。みんなが働いていた。
空気は乾いていて、風は少し冷たい。標高が高いのだろう。
昼間でも日陰はひんやりして、夕方になると一気に冷える。
畑の畔で作業する村人たちが、何気なく言い合っていた。
「〈ネーベルグラウ節〉も、もう終わりだな」
「雨が増える前に、できるだけやっとかねぇと」
季節の名前を、生活の合図みたいに口にする。
その響きが妙に現実味を帯びて、ツチダは胸の奥が引き締まるのを感じた。
◇
だからこそ、畑の状態が気になって仕方がなかった。
小麦の背丈がまばらだ。色も薄い。穂の付きが揃っていない。
根の張り方も浅い。土が硬いせいで下へ伸びられていない。
連作障害に似ている。
いや、それだけじゃない。もっと根本的に、土が痩せている。
ツチダは指で土を掘り、鼻を近づけた。
匂いが薄い。
健康な土には匂いがある。
腐葉土の甘さ。微生物の“温度”。湿り気の奥にある生き物の気配。
それが――ない。
「……おいおい」
声が低くなった、そのとき。
視界の端で、“きらめき”が揺れた。
土の表面。草の根元。地中へ続く層――そこに、薄い光の筋が走っている。
緑は、ところどころで途切れている。
青は一箇所に溜まり、別の場所は乾いて抜けている。
そして、赤みの粒が細く散って――妙に刺さる。
(……これ、土の“呼吸”だ)
そう思った瞬間、頭の中で勝手に言葉が並び始めた。
水が偏ってる。根が下へ行けない。
栄養が薄い。生き物が少ない。
「……なんで、土の中が“見える”んだ?」
目を閉じて深く息を吸う。
土の匂い、風の流れ、陽の光、遠くの村の声。どれも現実だ。
なのに視界の奥では、いまだに光が揺らめいている。
まるで土そのものが、俺に語りかけているように。
◇
「ツチダ、何してんだ?」
背後から声がして振り返ると、ニールが草束を抱えて立っていた。
顔は笑っているのに、目は真剣だ。
「畑を見てた。……土が、きつい」
「きつい?」
ツチダは手のひらの土を見せた。
「軽い。保水力がない。根が浅い。……このままじゃ収量が落ちる」
ニールの口元が一瞬だけ固まった。
「……分かるのか」
「分かる。あと……変な話になるけど」
ツチダは、声のトーンを落とした。
「俺には“色”が見える。土の中の流れみたいなものが……色で」
ニールの顔から笑みが消える。
そして周りを素早く見回してから、吐き捨てるように言った。
「……それ、外で言うな」
「まずいのか?」
「面倒になる。村の外の連中に聞かれたら、特に」
ニールは苦い顔で続ける。
「でも……村長なら、聞くかもしれねぇ。畑の話となると、あの人は本気だ」
ツチダは畑を見渡した。
黄金色の波の下で、色の粒が流れている。
直せる。
直し方はある。
だが――勝手に弄るわけにはいかない。
「……村長に話す」
ニールは少しだけ肩の力を抜いた。
「それがいいな。まあ、おまえが昼間畑をうろうろしてたの、もう見られてると思うぞ。あの人、目だけはいいから」
◇
日が傾き始めたころ、村の子どもが走ってきた。
息を切らし、ツチダの前で止まる。
「ツチダさん! 村長さまが、今夜、お家に来てほしいって!」
ツチダは、ニールと目を合わせた。
ニールは「ほらな」とでも言うように、短く頷いた。
ツチダは畑の匂いをもう一度、胸いっぱいに吸い込んだ。
この土地の空気は、もう次の季節の入り口に立っている。
「……間に合う。間に合わせる」




