冬を越す種
その晩、ツチダは村長の家へ呼ばれた。
石を組んだ炉では、乾いた薪がぱちぱちと音を立てている。勧められた椅子へ腰を下ろすと、村長は湯気の立つ椀を差し出した。茶ではない。干した葉を煮出したものらしく、口に含むと青臭い苦みがあった。
「身体は、もうよいのかね」
「ええ。まだ少し痛みますけど、畑を歩くくらいなら」
「三日も寝込んだ男が、起きて最初にすることではないな」
穏やかな声だったが、目は笑っていなかった。
炉の傍らには、刈り取った麦の穂が何本か置かれている。どれも実入りが悪い。村長は一本を手に取ると、節くれ立った指で穂をほぐし、薄い実を掌へ落とした。
「今年の麦じゃ。食う分だけを考えれば、どうにか冬は越せる。じゃが、次に播く種を除けば足りん」
「種を食えば、次の年がなくなる」
「残せば、この冬に腹を空かせる者が出る。そういう勘定じゃ」
ツチダは掌の椀を見下ろした。
冬は一度だけ来るわけではない。今年を凌ぐために来年を食えば、次の冬はもっと厳しくなる。北海道でも、種芋や種籾は腹が減ったからと手をつけていいものではなかった。
「昼間、畑の土を掘っておったそうじゃな」
「すみません。断りもなく」
「土を一握りした程度で咎めはせん。それより、何が分かった?」
試されている。
ツチダは椀を置き、言葉を選んだ。
「表面が固く、根が浅い畑がありました。風で乾きやすい場所もある。ただ、今日見ただけでは、原因までは決められません」
「分からん、と?」
「これまで何を植えたのか。肥やしをどれだけ入れたのか。雨のあとの水がどう動くのか。それを知らずに土だけ見て、直せるとは言えません」
村長は何も言わなかった。炉の中で薪が崩れ、赤い火の粉がひとつ舞った。
「では、分かったことは」
「村じゅうが、同じ悪さをしているわけじゃない」
ツチダは足元の土間へ指を滑らせ、村と畑の位置を大まかに描いた。
「俺が見た畑は、このあたりです。表は乾いていました。けど、北のほうだけ、地面の下に青い色が溜まっていた」
「青い色?」
「たぶん、水です。遠くから見ただけなので、どこから来ているかまでは分かりません」
村長の目が細くなった。
「北の畑へは入っておらんな」
「はい。道から見ただけです」
「あそこは雨が二日も続けば水に浸かる。溝を掘っても、畝を高くしても、十年まともに実ったためしがない」
今度はツチダが黙る番だった。
離れた道から見えた青は、やはり水だった。だが、当たったことよりも、十年という言葉のほうが重い。村人たちは十年、同じ土地を見て、掘り、播き、失敗してきたのだ。
「ニールから聞いた。おぬしには、色が見えるそうじゃな」
「……はい」
「古い話では、色を見て大地の理を読む者を〈聖者の目〉と呼んだという。神殿の説教に出てくるような話じゃ。わしも、実在するとは思っておらんかった」
「俺は聖者じゃありません。ただの百姓です」
「聖者かどうかを決めるのは、いつも本人ではない」
村長の声が低くなった。
「色を見る者がいると知れれば、神殿も領主も放ってはおかん。どちらもまず、その目を何に使えるか考えるじゃろう。ニールが口を閉ざせと言ったのは、そのためじゃ」
ツチダは無意識に目元へ触れた。ニールが怯えた理由を、ようやく理解した。
「明日の朝、北の畑を見てくれんか」
「見るだけなら。ただし、直せるとは約束できません」
「構わん。まずは見るだけじゃ。土を動かすなら、そのあとでわしに言え」
「もちろんです。他人の畑は、その人の暮らしですから」
村長はしばらくツチダの顔を見ていたが、やがて掌の麦を炉端の布へ戻した。
「……おぬしが先に口にしたのが、それでよかった」
試されていたのは、目の力だけではなかったらしい。
外へ出ると、夜気は思った以上に冷えていた。村の向こうに広がる畑は暗く、土の下を流れる色だけが、かすかな光の筋となって揺れている。
あの光が何を示すのか。自分が本当に、この土地で何かできるのか。
答えはまだない。
だから明日、まず畑を見る。




