よく知る土の匂いと、見知らぬ空
目を開けると、天井があった。見知らぬ梁。土壁。藁で塞がれた隙間。
鼻をくすぐるのは、煙と乾いた草と、それから――土の匂い。
(……土間だ)
北海道の納屋とは違う。だが、“働く場所”の匂いだけは同じだった。
安心しかけて、すぐに咳が込み上げる。喉が焼けたみたいに痛い。胸が、内側から締めつけられる。
身体を起こそうとして、全身が拒否した。肩と腕が痺れて、包帯が目に入る。
着ているのは見慣れない粗布の服だった。
納屋の隅に、水を吸って固まった見慣れない布の塊がある。
――北海道農協のマークが入ったカッパだと気づくのに、少し時間がかかった。
「目、覚めたか!」
戸口に若い男が立っていた。浅黒い肌に麻布の服。腰には木鞘の短剣。粗い作りなのに、刃だけは手入れが行き届いている。
「……ここは……?」
声が掠れた。思ったより、ずっと情けない音だ。
「レイト村だよ。川を流れてきたんだ、あんた」
男は肩をすくめる。
「三日も寝てた。死んだと思ったぞ」
三日。
頭の中で“あの日”を掴もうとして、指が滑った。金色の大地。見たことのない空。きらめき。
夢と現実の境目が、まだふやけている。
「……助けてくれたのか。ありがとう」
礼を言うと、男は照れたように鼻を鳴らした。
「へへ。放っとけなかっただけだ」
それから胸を叩く。
「俺はニール。……あんたは?」
名が必要だ。そう理解した瞬間、喉の奥がもう一度ひりついた。
「土田耕平。……ツチダでいい」
「ツチダ、な。変わった響きだ」
――通じてる。
音はどこか違う。なのに、意味だけが先に頭へ落ちてくる。
理解できてしまうことが、かえって気味が悪い。
窓の外から風が差し込み、薄い布が揺れた。
光が一瞬、踊る。
ツチダは反射的に目を細めた。
(……見える)
空気の中に、微かな粒。
赤、緑、青。
風に乗って、漂っている。草の葉の上。土の表面。濡れた木桶の縁。
淡い光が立ちのぼり、静かに沈んでいく。
気づけば、声が漏れていた。
「……色が、見える」
ニールがきょとんとする。
「色? ……なに言ってんだ」
窓の外とツチダの顔を見比べる。
「どんな色だよ」
「空気の中に……赤とか、緑とか。光が漂ってるみたいな……」
ニールの笑いが消えた。目だけが、急に硬くなる。
「おい……まさか」
声が低くなる。
「ツチダ、おまえ……“色を見る人”なのか?」
「色を見る人……?」
「滅多にいねぇんだ。魔術師でもねぇのに、色が見える奴なんて」
魔術師。色を見る。
単語は分かるのに、意味の輪郭が掴めない。
ただ、ニールの表情が冗談じゃない。
「……それ、まずいのか?」
問いかけると、ニールは口を閉ざした。
戸口へ視線を滑らせる。誰かの気配を探すみたいに。
「……声、でかくすんな」
小さく、噛むように言う。
「見つかったら、面倒なことになる」
面倒。
その一語が、胸の奥に沈んだ。
ツチダは窓の外を見た。丘の向こうに畑がある。黄金色に波打つ麦。
その上を、色の粒が風に乗って流れていく。大地が呼吸しているみたいだった。
(……いい土地だ)
口から零れて、遅れて自分で驚く。
ニールが呆れたように息を吐いた。
「変な奴だな。命拾いしたばっかで、畑の話かよ」
ツチダは弱く笑って――すぐに、笑みを引っ込めた。
ニールの顔に、疲れが見える。言葉の端に影がある。
「……この村、何がある?」
ニールの唇が一瞬、固まる。
「……冬が来る」
短い答え。
それだけで続きが想像できてしまう。北海道の農家だった男は知っている。
冬は容赦がない。食わせられない土地は、人を殺す。
ツチダは、黄金色の畑を見た。
間に合わなければ意味がない――その感覚だけが、身体の芯に残っていた。
「……畑、見せてくれ」
ニールは一拍置いて頷く。
「……明日な。歩けるようになったら」
そして、最後に付け足した。
「……絶対、村の外じゃ“色が見える”なんて言うなよ」
ツチダは、乾いた喉で息を飲み込む。
「……わかった」
ツチダの背中を、冷たいものが撫でていく。




