冬の稽古場、赤い師範
帝国近衛騎士団の稽古場は、冬でも容赦がなかった。
床板の上には薄く霜が張り、吐く息は白い。
天井の梁から吊るされた灯りが、甲冑の表面で冷たく反射している。
「——寒いから、まずはちゃんと温める! はい、屈み跳躍あと十回!」
真冬の空気を切り裂くように、よく通る声が飛んだ。
赤い。
まず目を引くのは、その髪だ。
深紅の髪を揺らしながら、師範役の少女——レイ師範が号令をかけていた。
「い、いやもう無理……!」
「膝が、膝が笑っております師範殿……!」
列のあちこちから、悲鳴とも呻きともつかない声が漏れる。
甲冑を着たままの屈み跳躍。
それを、もう三十回はやっていた。
もともと重い鉄が、今日はやけに骨身に堪える。
膝を曲げ、床すれすれまで腰を落とし、そこから一気に跳ぶ。
継ぎ目がきしみ、太腿が焼けるように熱い。
「なに言ってんの、まだ三十回でしょ? ほら、あと十回」
レイ師範は軽く腰を落とし、そのままぴょん、と跳んだ。
甲冑は着ていない。なのに、こちらよりずっと安定して見える。
「いーち、にーい、さーん。はい、声出して!」
「いちっ、にっ、さんっ……!」
(この人、なんで同じことやってんのに涼しい顔なんだよ……!)
心の中で叫ぶ。
四回目。
五回目。
呼吸が乱れる。喉が焼ける。
けれど、前の背中が軽やかすぎて、止まるのが悔しい。
「よーし、あと五回!」
レイ師範は、もう一度ぴょんと跳んで、にかっと笑った。
「“あと少し”って思ったとこで、もうひと踏ん張りできる人が、本番で一歩多く前に出られるんだからね!」
その言葉に、なぜか足が勝手に動く。
六回目。
七回目。
八回目。
もう脚は悲鳴しか上げていないのに、不思議と列は崩れなかった。
「はい、ラスト二回!」
誰も返事をする余裕はない。
だが全員、歯を食いしばって跳ぶ。
「——おつかれさま!」
最後の号令と同時に、へたり込みそうになる足をどうにか踏ん張る。
ここで座り込んだら、次の稽古でさらに酷い目を見る。そんな予感だけは全員が共有していた。
「じゃあ次は——」
「ま、待ってください師範……!」
思わず声が出た。
隣でも同じくらいの新人騎士が、肩で息をしながら呻く。
「あの……次、あるんですか……?」
「あるよ?」
レイ師範はきょとんと首を傾げた。
「体温まったんだから、ここからやっと剣の稽古でしょ? 冬は転びやすいし、受け損ねたら怪我しやすいんだから。体が冷えたまま打ち合いとか、もってのほか」
(言ってることは、すごく正しい……!)
正しいからこそ、余計にきつい。
レイ師範はそこで少しだけ表情を引き締めた。
「……それにね」
窓の外、雪をかぶった城壁の向こうへ視線を向ける。
「今は表向き平和だけどさ。ツチダは冬と戦ってるし、神聖国だってイースタシアだって、瘴気とか飢えとかでずっとぴりぴりしてる」
こちらを振り返って、ふっと笑う。
「その中で、帝都だけは“無事でした”って顔してなきゃいけないんだから。私たちが、ちゃんと“いつも通り”動けるようにしとかないとね?」
新人たちの間に、短い沈黙が落ちた。
ここは最前線じゃない。
けれど、何かあった時、この街の“いつも通り”を守るのは、自分たちの役目だ。
決まり文句みたいに重たく言ったわけではない。
なのに、言葉の端々から、その重さだけはちゃんと伝わってきた。
「だから、はい。剣。構えて」
レイ師範は腰の模造剣を抜き、軽く構えてみせる。
その動きは、さっきまでの跳躍よりもさらに自然で、力みがない。
「今日も“いつも通り”動けるように、もうちょっとだけ頑張ろ?」
その笑顔に、誰も「無理です」とは言えなかった。
「は、はいっ!」
剣を握り直す。
膝はまだ笑っている。
甲冑の下は汗でじっとりしている。
それでも。
(……レイ師範が前に出るときに、“足引っ張るな”って思われたくないしな)
自分でも驚くほど素直な理由で、新人騎士は一歩、前に出た。
稽古場に、剣と剣のぶつかる音が響き始める。
冷え切った空気の中、その音だけが少しずつ熱を帯びていった。
数日後——
この帝都の“いつも通り”を、今こうして明るく号令をかけている少女が、たった一人で守ることになる。




