冬の帝都、書類と鍋
真冬の帝都は、音まで凍らせる。
石畳を渡る風は、建物の隙間を見つけては遠慮なく吹き込んでくる。宰相府も、その例外ではなかった。
窓ガラスを薄く白く曇らせる冷気と、部屋の隅でぐつぐつと煮える小さな鍋から立ちのぼる湯気が、ツチダの執務室で混ざり合っている。
鍋の中身は、昨夜の残り物を少しだけ手直ししたスープだ。大麦と干し肉、それに神聖国から届いた乾燥ハーブをひとつまみ。仕事机の端に据えられた簡易魔導コンロの上で、それは控えめにコトコトと音を立てていた。
「……仕事部屋で煮炊きしていいって許可したの、誰なんだろうなぁ」
自分だ、と思いながら、ツチダはペンを走らせる。
机の上には、何重にも積み上がった文書と統計表。
いつしか「食卓条約」と呼ばれるようになったその取り決めに基づき、凍裂季に入って以来の大陸内の農政調整は、帝都宰相府のこの一室に集約されつつあった。
扉が控えめに二度、叩かれる。
「失礼します、ツチダ顧問。新しい報告書が届きました」
若い声とともに入ってきたのは、帝都大学を出てまだ数年という顔つきの文官だった。両腕に抱えた書類束で前が見えていない。
「お、おっと。転ぶなよ。穀物より人のほうが貴重なんだから」
「は、はいっ」
慌てて体勢を立て直した文官が、机の上のわずかな空きスペースを見つけて書類を置く。
「ええと、上から順に、帝国内の今季収穫と備蓄状況の確定値、神聖国からの冬季作付け計画の修正案、それからイースタシア月王国より、沿岸凍結後の漁獲報告と……瘴気発生なしの確認書です」
「瘴気なし、ね。そこが一番大事だよ」
ツチダは、イースタシアからの青い封蝋を指先で軽く弾いた。
「ありがとう。あとは……」
ふっと鍋の匂いが強くなる。大麦と干し肉の香りに、ハーブの青い匂いが重なった。
「……ちょうどいいや。君も一杯食ってく?」
「えっ。勤務中なので、その、その……」
「勤務中だからこそだよ。腹減ってたら数字なんて読めないだろ」
ツチダは立ち上がって椀を二つ取る。
「食卓条約ってのは、机の上の理屈だけじゃない。こういう一杯が、ちゃんと続くようにするための条約なんだから」
そう言って笑うと、若い文官は照れくさそうに笑い返した。
「……では、ありがたく、一口だけ」
「よし。椅子そこな。先に数字見ちまうと、余計に腹が鳴るかもしれないけど」
ツチダは帝国内収穫報告の束を手元に引き寄せた。
まずは小麦と大麦。中央平原とロジア高原からの報告は。
「……ふむ。萌緑季の長雨の割には、よく粘ったな」
昨年の萌緑季は、例年より雨が多く、病害の懸念はあったものの防除と品種改良の成果か、想定より収量は落ち込んでいない。
備蓄倉庫の状況も、数字の上ではまだ「安心」の範囲だった。
「北の豆も、昨年比一〇五パーセントか。ノースタン向けの輸送路、凍る前にもう一便いけそうだな……」
挟まれていたメモに、小さな字で書き込む。
ノースタン。
あの銀狼たちの、冬を噛み砕く食卓が、今年もちゃんと続くように。
次に、神聖国からの報告書を開くと、羊皮紙の上には以前よりずっと現実的な数字が並んでいる。
「冬季作付け、小麦は南部を中心に面積拡大。補佐穀は凍結回避のため選定と集約……」
思わず口元が緩む。
「クロエさんも、だいぶ理の数字に慣れてきたな」
かつて神の奇跡で片づけられていた凶作や飢饉は、今では「どこで、何が、どれだけ足りないか」を数字で示されるようになった。
奇跡ではなく、段取りで飢えを避ける。
それが、食卓条約の掲げる大陸共有の理のひとつだった。
ペン先が、さくさくと紙の上を走る。
「問題は、水と……」
最後の封筒に手を伸ばす。イースタシアの青い封蝋には、月の紋章が押されていた。
封を切ると、端正な字で簡潔な報告が並ぶ。
『今季、凍結海域における漁獲は平年並。瘴気濃度に異常なし。共鳴観測塔の記録も安定推移』
ツチダは、ふう、と小さく息を吐いた。
「よしよし……」
あの国は、瘴気の海と内陸の痩せ地の狭間で、いつもぎりぎりの均衡のうえに暮らしている。
海が凍る季節に魚が獲れなければ、冬の夜を越せない家がいくつも出ただろう。
ツチダはスープを一杯よそって口に運ぶ。
温かさが喉から胸に染み込んで、数字と地図の間に一本、線が引かれる。
この一杯を、大陸中で続けたい。
それが、今の自分に与えられた役目だ。
「ツチダ顧問、その……」
隣でスープを啜っていた若い文官が、おずおずと口を開いた。
「こうして各国からの報告が滞りなく届くのも、あなたが食卓条約の農政担当として動いてくださっているおかげです。帝国の文官一同、本当に……」
「やめてやめて。そういう持ち上げ方はいちばん胃に悪い」
ツチダは片手をひらひら振った。
「俺はただ、足りないところを埋めて、余ってるところから少しずつ回してるだけだからね」
そこでいったん言葉を切り、窓の外へ目をやる。
帝都の屋根は、うっすらと雪をかぶっている。市壁の向こう、東の空はまだ重い雲だ。北の山々は、ここからは見えない。
けれどその向こうで、ノースタンの銀狼たちも、神聖国の農夫たちも、海の向こうの月兎たちも、それぞれの冬を噛みしめている。
その光景が、ありありと想像できた。
「……本当はなぁ」
ぽつりと、声がこぼれた。
若い文官が、きょとんとこちらを見る。
「いや、ごめん。独り言。独り言なんだけどさ」
ツチダはペンを置いた。指先に残るのは、土じゃなくインクの感触だ。
「俺、農家なんだよ」
声は大きくない。
けれど、妙に真剣な響きになってしまった。
「畑に出て、手ぇ真っ黒にして、鍬振って、泥に膝まで埋まってさ。『この土はまだいけるぞ』って言ってるほうが、ほんとは性に合ってる」
若い文官が、困ったように笑う。
「それが、なんで真冬の帝都のど真ん中で……書類の雪崩と戦ってるんだろうな、俺」
自分で言って、自分で少し可笑しくなった。
「いや、わかってる。わかってるんだよ。誰かがやらなきゃいけない。俺が逃げたら、数字の向こうで飯が消える」
そう言って、ペンを取り直す。
「……だから愚痴はここまで。スープ、もう一杯いく?」
「えっ。い、いただきます」
文官の返事に、ツチダはようやく肩の力を抜いた。
もう一度、収穫報告に目を落とす。
帝国の収穫。備蓄状況。神聖国の冬季作付け。イースタシアの凍る海の漁獲と、瘴気なしの報告。
一本の畝の代わりに、大陸を横断する数字の線を引いているような仕事だ。
やりがいはある。役目の重さも、ちゃんと理解している。命を預かっているという自覚もある。
それでも。
「……畑が遠くなった分だけ」
ツチダは書類の山を見回し、小さく笑った。
「俺の畑、だいぶでかくなったよな」
若い文官が、少しだけ目を丸くする。
「……そう、ですね」
「でかすぎるけどな」
ツチダは肩をすくめた。
「まあ、ギリ許すか」
そう呟いて、再びペンを走らせる。
数字の向こうには、まだ見たことのない村の畑がある。会ったことのない農夫たちの顔がある。知らない台所の湯気がある。
そこへ向かって、今日も理を引く。
このとき、まだ彼は知らない。
北の果て、エルドフロストの山が、その日、いつもとは違う唸り方を始めていたことを。




