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農家の異世界奮闘記 ~理の目と鍬一本で、国を回し、神話を問い直す~  作者: 今無ヅイ
極北白鎖編

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プロローグ 灰の盆地、火の道

 最初の揺れは、ラウメ・スープの鍋をかき回しているときに来た。


 天井梁から吊るした干し肉が、かすかに鳴った。

 釘にかけた毛皮がふるりと揺れ、雪混じりの窓の桟から、乾いた粉がさらさら落ちる。


「……地鳴り?」


 灰毛の女は木杓子を止め、耳を澄ませた。


 鍋の中で豆がコトコト踊る音の向こうに、

 大地の奥で誰かが低く唸っているような、鈍い響きがある。


 エルドフロストは冬の間、よく小さく唸る。

 雪解けのたびにどこかの岩が崩れ、蒸気が上がり、細い地震が来る。

 だから、この程度の揺れなら――本来なら、驚くほどのことではない。


 女は窓を開けた。

 冷気が頬を刺し、同時に、鼻の奥をひりつかせる匂いが入り込んできた。


 硫黄。

 それも、ただの温泉の匂いじゃない。生臭い、焦げた、刺すような――。


「……山が、怒ってる?」


 盆地の向こうに、エルドフロストの白い肩が見える。

 いつもは青い空に切り取られたその輪郭の上に、今日は細い煙が縦に伸びていた。


 灰でも雲でもない。

 真っすぐな線。


 女が眉をひそめた、そのとき――


 ドン、と世界が一度、上下に跳ねた。


 棚が鳴り、皿が落ち、鍋がひっくり返る。

 湯気と豆と干し肉の匂いが一気に立った。――冬の匂いだ。

 けれど次の瞬間、その匂いは硫黄に上書きされた。


 立っていられず、女は床に膝をつく。

 耳の奥を殴られたような圧が通り過ぎていく。


 遅れて、子どもの泣き声。

 犬の吠える声。

 外では誰かが叫び、雪を踏む足音が走り回った。


 ◇


 村の鐘が鳴った。


 アスクヘイムにひとつしかない小さな鐘が、これでもかと乱暴に打ち鳴らされる。


「避難だ! 北の道だ、いつも通り北だ!」


 銀狼族の男たちが、吠えるような声で叫びながら走る。

 背中には子ども。腕には荷。

 ひっくり返った鍋を諦めきれずに抱えて飛び出す女もいる。


 “山が唸るときは、風下に逃げろ”


 祖母に叩き込まれた言葉が、女の頭をよぎった。


 盆地の村は北側の斜面が急で、南側が開けている。

 エルドフロストは東。今日は西風。だから――。


「北の高台へ!」


 誰もが経験則通りに動いた。

 何度も小さな噴煙と雪崩をやり過ごしてきた、“正しい動き”のはずだった。


 走りながら、女はもう一度だけ山を振り返る。


 ――噴煙の柱が、空を突き抜けていた。


 白くない。

 灰色でもない。

 根元のあたりだけが、燃えさしの炭みたいに赤く暗く、脈動している。


 そして、その根元から――何かが崩れ落ちてくる。


「……雪崩?」


 違う、と本能が叫んだ。


 雪崩にしては色が濃い。

 灰にしては重い。

 それは、山の肩から溢れ出した何かが、一度縦に落ち――途中で、横に広がった。


 白い盆地の地表を、灰色の舌が這う。

 その縁は赤く光り、踏みしめた雪が一瞬で蒸気になって弾けた。


「走れぇっ!!」


 誰かが喉を裂いて叫んだ。


 火砕流。そんな言葉を、女は知らない。

 けれど、それが「雪より速い」とだけは、一目でわかった。


 獲物を追うときの感覚で測る。

 あれは鹿より速い。猟犬の全速力より速い。馬でも逃げ切れない。


 いつもなら風下の谷筋に落ちるはずのそれが――


 曲がった。


 風に逆らって。

 盆地の傾きに逆らって。

 村の方へ、舌を伸ばしてくる。


「おかしい……!」


 女の前を走っていた老猟師が、足を止めかけた。

 この山で五十年、獲物を追ってきた男だ。

 雪崩も崩落も、小噴煙も、何度も見てきた。


 だからわかる。

 これは、「知っている山の動き」ではない。


 だが、立ち止まっている時間はなかった。


 高台へ続く唯一の緩やかな坂道に、人々が殺到する。

 その背後から、熱が迫ってくる。


 まだ触れてもいないのに、背中の毛皮がじわりと汗ばむ。

 雪を踏む足音の下で、土が鳴っている気がした。


 振り返る勇気は、誰にもなかった。


 ◇


 北の高台にたどり着けた者は、全員が振り返った。


 振り返ってしまった。そう言った方が近い。


 アスクヘイムの盆地が、煙の海に飲まれていく。


 家が、納屋が、温泉小屋が、柵も畑も。

 さっきまで自分たちの“冬を越すための牙と穂”だったものが、

 灰色の波に撫でられた瞬間、形を失って消えていく。


 音は、少し遅れて届いた。


 山が、吼えていた。


 遠吠えの百倍も低く、重く、腹の底を震わせる声で。

 その叫びが終わらないうちに、第二の揺れが来る。


 今度は、足元からだ。


 女は足を取られ、膝から雪に沈んだ。

 高台の下――彼らが駆け上がってきたばかりの斜面に、どろりとしたものが押し寄せてくる。


 雪ではない。

 水でもない。

 灰と雪と岩と水が混ざり合った、粘つく灰色の川。


 けれど、それが冬の川より速く、夏の雪解けより重い流れだということだけは、ひと目で理解できた。


 その泥流が――


 本来なら避難路をそれて流れるはずの溝を無視して、

 まるで誰かが指でなぞったような新しい筋に沿って、高台の脇をえぐっていく。


 避難路のひとつが、丸ごと飲み込まれた。

 さっきまでそこを走っていたはずの人影は、もう見えない。


 風が雪を運んでくる。

 熱と硫黄と灰を混ぜ込んだ、重たい風だ。


 誰かが膝をつき、誰かが泣き、誰かが叫んだ。


「山が……こんなの、違う……!」


 老猟師が歯をむき出して唸る。

 白い髭には、灰と涙が絡みついていた。


「こんな噴き方、知らねえ……!

 風も、傾きも、関係ねぇ……火が引っ張られてやがる……!」


 女は抱いていた子どもを、胸に強く抱きしめた。

 自分の心臓が暴れる音と、山の咆哮と、泥流のうねりが、耳の中で混ざる。


 エルドフロストは永久雪原の王だ。

 この土地に生きる銀狼族は、その機嫌を読み、牙を磨き、冬を噛み砕いてきた。


 その山が今、牙も爪もいらないほどの力で、

 盆地ごと彼らの暮らしを舐め取ろうとしている。


 女は薄く開いた唇から、ほとんど声にならない声を絞り出した。


「……ガルフ様に、伝えなきゃ……」


 ノースタンの牙の王に。

 “冬を噛み砕く”と誓った族長に。


 この冬は、牙だけでは足りないのだと。


 エルドフロストの噴煙は、なおも空を突き刺すように伸び続けていた。

 その根元で渦を巻く赤と灰と黒が――なぜだか、山の息ではなく、誰かの“手つき”に見えた。


 火に、道を選ばせているかのように。

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