デオドラントスプレー
この作品は、フィクションです。作品に登場する人物名・団体名・その他名称などは架空であり、実在する人物・団体・その他名称などとは一切関係ありません。
川島は、苛ついていた。
見えない場合、聞こえない場合がある、ということへの気持ち悪さも気にはなるが、それについては、もともとそうだったのだから、それほどでもない。いるのはわかっている。そういうやつらが、この世にいるのは、わかっている。今、この場所にいるかどうかは、見つけられないから分からないが、この世に実在していることは、もう認めている。
だから、突然現れても、驚くだけで、怖いというわけではない。
虫のようなものだ。蚊とか、ゴキブリとか、ムカデとか。同じ部屋の中にいるかどうかは、わからないが、虫という存在がこの世にいることは、わかっている。
蚊の羽音で、蚊に気づいても、なかなか本体は見つけられなかったりする。何とか本体を見つけて、処す為に、目で追っていても、見失ったりする。しかし、確実に、部屋にいることはわかる。注意深く観察すれば、ターゲットは自分なのだから、いずれ現れる。こちらのターゲットも、蚊だ。川島は、見つけたら、処すまで、あきらめない。
ちなみに、川島は、掴み取って握り潰す派だ。だが、手練れには、そのやり方では通用しない。手練れとは、縦横無尽に空間を支配する飛行特化型。壁から壁、そして天井へと飛び移り、じっと息を殺して潜むステルス型。そして捕まっても、拳の中の僅かな隙間に潜り込み、圧殺を免れる、ここは俺に任せて先に行け型。最後のは、ちょっとニュアンスがズレるが、そこはご愛敬。
手練れ相手では、ポリシーを曲げて、古来より伝わる伝統的な手法、手のひらでバチン、を用いる。
逃げられて、どうしても見つけられない場合は、線香を焚いたり、殺虫剤を振り撒いたりする。
殺虫剤と言えば、大先輩、宮田の逸話がある。
2人で、改修工事の打合せに出かけた時のことだ。
打合せは、いつもの調子で、宮田の独壇場だった。打合せ自体は、特に何もなく、無事に終わった。お別れの挨拶の途中、相手に、トイレを借りるよ、と宮田はお願いした。
川島は、剛の者に多い、縄張り意識の強いタイプだ。自分の仕切っている現場で、その工事ヤードで、別途工事の業者が、断りもなく勝手な作業をおこなっているのを見ると、激怒するタイプだ。仕事上、筋を通す通さないの話に、拘る。
しかし、現場事務所の仮設トイレが、部外者に勝手に使われることに関しては、悪質でない限り、寛容だ。生理現象は、どうしようもない。便所を貸すのは、武士の情けだ、と常々言っている。
トイレを貸さない、というのは、なかなか非道である。非道であるから、行わない。しかし、トイレを貸してやったのに、この仕打ちはなんだ、という悪質な連中には、こちらも慈悲の心を持たない。
話が逸れたが、とにかく、宮田はトイレを借りられた。川島も、連れションというわけではないが、次のトイレチャンスが不明だったので、ついでに、僕もいいですか、とお願いした。
川島は小さい方で、宮田は大きい方だった。川島が先に済ませて、宮田の方が、後から出てくることになった。
「解せぬ。」
先にトイレを出て、社用車で宮田を待つ川島は、眉間に皺を寄せた。
ある日のこと、宮田の次男坊が、川島の担当する現場に塗装工として、やってきた。休憩中、コーヒーを飲みながら雑談をしていると、雄大が、お腹をさすりはじめた。うまれるのか?ときくと、もう間もなくです、と返してきた。
「あ!トイレ行ってきます。」
仮設トイレに駆け込む雄大を見送って、缶コーヒーを、ひと口とかふた口、飲んだくらいで、雄大がスッキリした顔をして、戻ってきた。
「あれ?小便だったのか?」
「いいえ、大です。」
あの常軌を逸した大便の速さは、父親譲りではないのか。では、母親譲りか。顔は、父親そっくりなのに。
そうこうしていると、宮田が社用車に戻ってきた。宮田が、車に乗り込んだ瞬間、爽やかな匂いが広がった。
「なんですか?この匂い。」
「川ちゃんよー。蚊が多くてな。殺虫剤が見当たらんかったから、置いてあった消臭スプレーを振り撒いたんだが、ええ匂いするだけじゃがー!」
わはははは、と笑う。
この話を、他人にする時は、消臭スプレーよりもデオドラントスプレーの方が、語感的に面白いと考えて、デオドラントスプレーだったことにしている。
何はともあれ、蚊については、以上だ。
次は、ゴキブリだ。
ゴキブリが現れても、ちょっと驚くが、対処はできる。
工事現場から離れたところに、現場事務所を設置した現場が、あった。
徒歩数分を、行ったり来たり。
ある日、現場から事務所へ帰っていると、金券ショップの扉から半身を出した女性が、声を掛けてきた。
「すみません。お願いです。助けてください。」
何か、以前、聞いたような台詞だな、と思いながら、
「どうかされましたか?」
近づくと、店の中へ案内された。
「この中に、いるんです。」
川島を盾に、机の上の、クッキーの空き缶を指差している。
「何がいるんです?」
「ゴキブリ(小声)が…。」
ああ、なるほど。
「わかりました。下がっていてください。」
女性が下がるのを軍手をはめながら見届けて、
「開けますよ。」
宣言してから、ゆっくり缶を開けると、レシートとか納品書のようなものが入っていた。ああ、それ用の缶か。指で、用紙をあっちやこっちに除けると、直ぐにやつは現れた。
作業服を着てる時は、オンの状態だ。大概のものは、躊躇なく、掴める。
ゴキブリも、逃げられる前に、捕まえた。
「ティッシュは?」
女性は、ものすごい枚数のティッシュを用意した。ティッシュの中に、優しく包み、せめてもの情けと、一気に力を込めて圧殺した。
「ありがとうございました。」
ひと言、お礼を言われて、追い出された。
缶コーヒーの一本くらい奢ってくれないのか、と思ったが。まあいい。
次は、ムカデだ。ムカデにまつわるちょっと変わった話もあるが、流石に、端折る。
ムカデが現れても、驚くだろうが、対処はできる。
川島にとって、やつらは、虫と同じだ。ちょっと嫌だな、と思うが、対処できる相手だ。処せる。
だから、見えないからと言って、大きな脅威にはならない。
苛々している原因は、川島個人が所有している車に、乗った、という事実だ。




