行きはよいよい
この作品は、フィクションです。作品に登場する人物名・団体名・その他名称などは架空であり、実在する人物・団体・その他名称などとは一切関係ありません。
大師は弘法に取られ、太閤は秀吉に取られる。大師も太閤も、称号なのだから、他にその称号を賜わる者たちがいたにもかかわらず、大師と聞いて直結するのは、弘法大師、太閤さんは秀吉、という、イメージの強さを表現したことわざだ。
さて、その弘法大師、空海。愛知県の知多半島を訪れて、故郷を彷彿とさせるその姿に、望郷の念にかられて、歌まで詠んだという。
この山の風景も、川島の地元の山に似ている。川島が、義務教育で世話になった母校の校歌に出てくる程度の山だったが、その山に何となく似ている。似ているなあ、と思い、山を見ている。いや、遠くの緑を見ている。酔わない為に。
川島は子どもの頃、乗り物酔いが酷かった。遠足のバスでは必ず酔って、目的地に到着したころには、グロッキーだった。回復する頃には、同級生たちは、もうはしゃぎ疲れていていて、そろそろ帰ろうか、という時間になる。遠足は、苦行でしかなかった。
祖父が一度、どうせ酔うなら、最初から酔えばいい、と遠足に出かける前の少年川島に、こっそりウィスキーを一口飲ませたことがある。乗り物酔いと酒酔いは、違う。その日の遠足のバスは、地獄だった。
遠足から帰ってそのことが発覚すると、母親と祖父が大ゲンカをしたのを、よく覚えている。
今でこそ、マシになってはいるが、油断すると酔う。自分の運転で酔うことが稀にあるくらいだ。
だから、なるべく酔わないように、立ち振る舞う。遠くの緑を見るなどして。
「俺たちは、海に向かっているんだよな?」
「そうだ。」
「なんで、今、山を登っているんだ?」
「ああ、それは…」
川下りだった。山道から少し谷へ下り、谷川へ出て、船着き場のようなところで船に乗り、川を下る。河口に、終点の港町があるという。
少し、揺れるので、川島は、酔わないように微調整をしながら、下っていくのはいいが、船をどうやって戻すのだろう、まさか人力じゃないよな、などと余計なことを考えていた。




