自制心
この作品は、フィクションです。作品に登場する人物名・団体名・その他名称などは架空であり、実在する人物・団体・その他名称などとは一切関係ありません。
弁明は、どれもしどろもどろで、ひとつも要領を得ない。よそ者は治外法権だから何をしてもいい、というのが、根底にあったのだろう。日本においても、漂流した西洋人が、たまたま日本に漂着し、鬼と呼ばれるようになった、という俗説がある。彼らには、川島が異物として見えているのだろう。よそ者で、見た目も、自分たちと同じ種類の人間とは思えない風貌をしているから、何をしてもいい、という結論に至るのは、この文明の感じなら、まあわかる。わかるが、だからといって、こちら側としては、何をされてもいい、という結論には、達しない。
目には目を歯には歯を、という話でもないが、川島にも、若干そういう気がある。
相手が、こちらを治外法権、自分たちの法の外、秩序の外にいる、と思っているように、川島も、この場所では、日本の法律に縛られる必要がない、という、ある種の解放感を得ている。何をしても、現実世界では、おそらく罰せられない。例えるなら、夢の中と同じような、意識がはっきりしている分、明晰夢の中にいるような感覚だ。
川島は、人並みに自制心がある、つもりだ。
車を運転している時に、煽られたり、無理な追い越しをされたり。レジに並んでいると、横入りされたり。駐車場で隣の車が斜めにとめて、ドアが開きにくくなっていたり。後から同じものを頼んだ客のところへ、先にだし巻きたまごが届いたり。
ほんの小さな、違いに、瞬間的に憎悪が噴き出してくるのを、いつもグッとこらえていた。斎藤先生ではないが、現代社会において、そんなことで憎悪をまき散らして、暴力沙汰を起こすわけにはいかないからだ。警察に捕まるのは、当然の帰結として、過剰な暴力行為を行った者として、インターネットで晒され、炎上し、ネットミームとやらに成り果てる。そうなることが分かっていて、その衝動を抑えられる自制心がどれほどあるのか、というのが、分水嶺だろう。
しかし、ここには、川島を縛るものがない。無意識に、当たりが強くなっているのも、そのあたりが原因かもしれない。
だが、川島は、人並みに自制心がある、つもりだ。
川島は、誰かがきっと見ているから、という慰め言葉がきらいだ。それは、不遇の若手時代、先輩から賜った言葉だ。おそらく先輩は、川島が苦労しているのを、自分は分かっているぞ、と言いたかったのだろうが、その先輩は、その先輩の評価がそのまま川島の報酬に繋がるような、偉い人ではなかった。
若い川島は、こう思った。あんたに認められたって、意味がない。
工業高校を選んだ理由は、バブルがはじけて、就職難になっていた時代に、就職に有利だったからだった。卒業後の進路を決める頃の求人倍率は、かろうじて1.0を切っていなかった。勉強が嫌いな自分が行ける大学など、ろくな大学ではない。そんな大学に進学したとして、もし求人倍率が1.0を切ってしまっていたら、就職活動に苦労するのは、つまらない。
だから、就職を希望した。どの会社がいいかなんて、贅沢は言えなかった。先生にすすめられた会社を受け、運よく、そのまま何事もなく内定をもらった。
同期は、川島を含めふたり。まじめでハキハキした関川と、ぶっきらぼうで目つきの悪い川島。
会社の期待は、当然、関川に向けられていた。
関川には、花形の道、ホテルの新築工事があてがわれた。
川島には、大きな解体現場の下働き。
そこからは、どさ回りのように、小さな現場や、人が嫌がる現場を転々とした。そういう現場がない時は、放置されたりもした。どんな現場でも、仕事は仕事だと、まじめにやっていると、見かねた他部署の先輩が、川島を貸してくれ、と言っては連れだしてくれた。その中には、新見もいた。結局は、都合のいい便利屋のような扱いだったが、様々な先輩の世話になり、あちこちの現場に手伝いに行ったおかげで、社内やグループ内で、横のつながりを持てた。会社からは期待されていないが、真面目にやっている、という話を聞きつけ、宮田が、自分の所で、一度見てみよう、と川島を引っ張った。そこで、馬が合ったのか、宮田は、川島を目にかけるようになった。
川島には、愛社精神がない。愛してくれなかった会社を愛する必要はない、と判断したからだ。
関川は、2年で自主退職していた。
会社には、やる気のある関川、やる気のない川島、とみられていたから、やる気のある関川が買われるのは、分かりやすい図式だった。しかし、実情は違う、と川島は自らの経験から、断じる。
最初からやる気がある奴は、それは、理想の高さや、野望の高さからくるものだ。それ以外は、虚栄だ。理想が高いから、最初はやる気に漲っている。大手なら、その理想が崩れることはないかもしれない。しかし、川島の所属する会社は、大手ではない。理想を受け止められる土壌は、ない。やがて関川は失望し、そして他の同級生と自分を比べてしまったのだろう。結果、この会社にいてはダメだ、と飛び出していった。
さようなら関川。
川島は、やる気がない。自他ともに認めている。今もだ。
仕事のモチベーションは、やる気ではない。仕事は、しょうがなくやるものだ、と考えている。
やらなければならない、だから、しょうがなくやる。
誰かが見ているからやるんじゃない。自分がやらなければならないから、やるのだ。
きっと誰かが見ている?見ているか見ていないかわからないものは、あてにならない。あてになるのは、自分だ。それだけはハッキリしている。誰かが見ているじゃない。自分が見ているんだ。
自分の行いは、自分が見ている。自らを律するのは、自らをもって、ほかにはいない。
それが、川島の自制心だった。
しかし、なくなって初めて気づくこともある。外的要因に、川島の自制心は、支えられていたのだ。
誰かが見ている、という意識がどこかにあったから、その自制心は保たれていた。
誰か、とはつまり、世間の目であり、法であり、現代社会の倫理観もまた、そうだったのかもしれない。
川島は、自身が意識していないところで、解き放たれつつあった。




