逆鱗
この作品は、フィクションです。作品に登場する人物名・団体名・その他名称などは架空であり、実在する人物・団体・その他名称などとは一切関係ありません。
川島には、自覚があった。仕事はやるが、仕事を知らない。その片寄りが極端である、という自覚があった。仕事を全く知らないで、仕事ができるわけはないが、仕事を知っている連中から見れば、全然知らない、無知な社員に映る。
ある同僚から、そういう理由でバカにされていた。同様に、川島も、口だけ野郎とバカにしていたから、イーブンだが。
川島だけに限ったことではないが、ことあるごとに揚げ足を取る。あちこちの共有ファイルを盗み見ては、それではダメだと、わざわざ指摘したり、現場に立ち寄っては、そんなことも知らないのか、と嫌味たっぷりに言って、上層部に、仕様書通りの、本来の正しいやり方を上奏した。そして、上層部から我々に、やり直しの下知が下る。他人を下げ、自分がいかに仕事を知っているかを、アピールしていた。
それはいい。白か黒かとなれば、正しいやり方が正義だ。それがよりよい品質に繋がるのなら、そいつが正しい。
だが、アピールの度が過ぎた。
「また川島がやってしまいましたよ。」
あの、部長へ進言する時の、下品で下劣な、あの醜悪な笑い顔は、川島に殺意を抱かせるほどの、嫌悪感をもたらせた。
それほど仕事を知っているのならと、彼は、本社栄転となった。そこが、彼の正念場だったと、川島は述懐する。
本社は、伏魔殿だ。自分なら絶対に行きたくはない。しかしそこでも、正しいやり方を通し、本社の連中を組み伏せたのならば、川島は自ら進んで頭を下げ、跪き、彼の下で働こう、と考えていた。
ひと月も持たなかった。ひと月も持たず、辞めていった。なんやかんやと、それっぽい理由を並べて、退職していった。
お前の正念場だったんだぞ!川島を含む、反感を抱いていたすべての社員を黙らせ、そこから登っていける、正念場だった。なぜ逃げた。
逃げない男、川島は、逃げる者全てを非難したりはしない。逃げなければならない場面もあるからだ。逃げてはいけないと思い込む、思い込もうとする場面は、逃げなければならない。しかし、逃げたい、と望んでしまう時は、逃げてはならない時だ。特に、正念場では。
大事な局面で、投げ出して、逃げ出した男。だから川島は、顔も名前も覚えておかないことにした。忘れるのではない、覚えないのだ。
だが、どうしても忘れられない、覚えてしまっているものがある。
あの、下品で下劣な、あの醜悪な笑い顔だ。
灰色人間が浮かべた笑顔は、その笑い顔にそっくりだった。
「わかりやすい笑い方をしてんじゃねえぞ。」
気づけば金縛りは解けていて、川島は、灰色人間の顔を、笑顔を握り潰すように、掴んでいた。




