第8話「他人事」
平壌の北方で新たな天然ガス田が発見されたというニュースを、私はつくばみらいの庁舎の自席で、コーヒーを片手に読んだ。
その三日後、中国軍が北朝鮮の油田地帯を占領し、朝鮮人民軍との戦闘が全土に広がった。さらにその数日後、軍内部のクーデターにより、李体制は崩壊した。
テレビでは、平壌の広場に人民解放軍の車列が入っていく映像が繰り返し流れていた。アナウンサーは興奮気味に「歴史的な瞬間です」と言っていたが、私はその映像を見ながら、思わずこうつぶやいた。
「またか」
隣の席の先輩が、ちらりとこちらを見た。
「橘さん、他人事だね」
「他人事じゃないですよ。ただ、驚かなくなっただけです」
実際、驚かなくなっていた。ロシアが分割されたときも、米軍が朝鮮半島から撤退して、韓国が完全に中国しか見なくなったときも、世界はそのたびに大きく形を変えたけれど、そのたびに私たちは、少し驚いて、少し慣れて、また次の仕事に戻る。その繰り返しだった。
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私は橘澪。資源エネルギー省——数年前までは「庁」だったこの組織も、日本が世界有数の資源輸出国になったことで、正式に「省」へ格上げされた——で、資源外交を担当する部署にいる。
茨城県水戸市の実家から、毎朝、車で四十分ほどかけて通勤している。霞が関時代は、実家からだと片道二時間もかかってしまう。当時は仕方なく、学生時代から住んでいた東京のアパートに居座って、そこから通っていたものだった。それが、経産省のつくばみらい市移転をきっかけに、アパートを引き払って実家に戻り、車通勤に切り替えた。皮肉なもので、省庁が動いたことで、私の暮らしの方が、水戸に戻ってきた形になる。父は市役所勤めの公務員、母は専業主婦。二人姉妹の次女として生まれた。姉はとっくに嫁いで、実家には私と両親だけが残っている。
東京大学を出て、この省に入って五年目になる。同期からは「橘さんは頭の回転が速い」とよく言われる。会議で誰も気づかない矛盾に、真っ先に気づくのは大抵私だ。上司の評価も悪くない。
ただし、それとは別の理由でも、よく名前を呼ばれる。
「橘さん、寝ぐせ」
「橘さん、口紅忘れてます」
「……橘さん、チャック」
今朝も、車を降りてから気づいた。スカートのファスナーが、途中まで開いていた。誰も教えてくれないまま、庁舎のエントランスを通り抜けていたらしい。
仕事のことになると、一歩引いて、全体を俯瞰して、的確な判断ができる。なのに、自分の身なりのことになると、驚くほど何も見えていない。同僚にはよく「もったいない」と言われる。私自身は、そういうものだと割り切っている。
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私の主な仕事は、資源供給の優先順位を調整することだ。
日本は今、世界の石油生産のおよそ五割、天然ガスもほぼ同じ比率を占めている。中国が二割、スロベニアが三割。かつて世界の資源を握っていた中東やロシアは、もうその表舞台にはいない。
供給の優先対象は、まずアメリカ。それに、CPTPP加盟国のうち日本を除く十一カ国と、台湾。友好国という括りで、比較的有利な条件での供給が続けられている。
その裏側で、日本発の民間軍事会社——通称PMC——が、いくつかの地域で「警備」の名目の活動を行っている。サハリン、千島列島、カムチャツカの共同管理区域。それから、タンカーの護衛。
サハリンの油田は、実はもうほとんど枯れている。それでも警備を続けているのは、あそこがもう「資源を守る場所」ではなく、「中国と国境を接する最前線」になっているからだ。旧ロシア極東——沿海州やハバロフスク——を、今は中国が統治している。
私の机には毎週、PMCからの警備報告書が届く。負傷者数、死者数。数字が並んでいる。正直に言うと、それを見て心を動かされたことは、あまりない。ただの業務資料として、判子を押して、次の書類に回すだけだ。
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平壌侵攻のニュースが流れたその日、省内は朝からざわついていた。
「橘さん、これ、うちの管轄にも影響出るぞ」
課長がそう言って、私の机にプリントを置いた。北朝鮮情勢の急変に伴う、朝鮮半島全体の情勢変化予測資料だった。
韓国は、もともと資源枯渇の頃から、じわじわと中国の顔色をうかがうようになっていた。それが決定的になったのは、米軍が朝鮮半島から撤退してからだ。後ろ盾を失った韓国は、以後、完全に中国しか見なくなった。北朝鮮の体制が崩れたことで、朝鮮半島全体が、これから誰の思惑で動いていくのか、まだ誰にも見通せない状態になっている。
「これ、うちのCPTPP周りの供給計画、見直しですか」
「たぶんな。台湾への供給ルート、もう一回精査してくれ」
「分かりました」
私は淡々と資料を受け取った。地図の上で、また一つ、色が塗り替わる。ただ、それだけのことのように、そのときは思っていた。
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昼休み、給湯室でお茶を淹れていると、同期の女性職員が声をかけてきた。
「橘さん、平壌のニュース見た? なんか、また世界変わっちゃうね」
「そうですね」
「怖くない?」
「……怖い、というより」
私は少し考えて、正直に答えた。
「実感が湧かない、んですよね。地図の上の話みたいで」
同期は、少し呆れたように笑った。
「橘さんらしいね、それ」
「よく言われます」
自分でも、それが褒め言葉なのか、そうでないのか、よく分からなかった。
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その夜、実家に帰ると、母が夕飯の支度をしながらテレビをつけていた。李体制崩壊のニュースが、まだ続いていた。
「澪、これ、あんたの仕事に関係あるんじゃないの」
「まあ、多少は」
「大変ねえ」
母の言葉は、ニュースの内容よりも、私の顔色を心配しているような響きだった。私はそれに、曖昧にうなずくことしかできなかった。
自分の部屋に戻り、鏡を見ると、朝からずっと気づかなかった寝ぐせが、まだ残っていた。今日一日、これで庁舎の中を歩いていたのかと思うと、さすがに少し脱力した。
ベッドに横になりながら、私は今日流れたニュースのことを、もう一度頭の中でなぞってみた。李体制の崩壊。北朝鮮という国そのものが、これからどんな形になるのかも分からないこと。世界の資源地図が、また一つ塗り替わろうとしていること。
どれも、大きな出来事のはずだった。それなのに、私の中では、まだどこか、遠い国のニュース映像を見ているような感覚のままだった。
いつか、これが「遠い国の話」ではなくなる日が来るのだろうか。そのときの私に、そう問いかける余裕さえ、まだなかった。
(第8話・了)




