第7話「夜明け」
大野記者からの連絡があったのは、村上家の庭に投石があってから、ひと月ほど経った朝だった。
「出ました、村上さん。全国紙の朝刊、一面です」
俺はコンビニで新聞を買い、その場で開いた。「国家ぐるみの燃料密輸、地方スタンド職員が暴いた真相」という見出しが、大きく踊っていた。渡辺統括の名前、監査室内部の関与、そして経産省の一部が黙認していた疑いまでが、丁寧な取材で書かれていた。
俺と朱里さんの名前は、伏せられていた。玉川次長が、あらかじめそう頼んでいたらしい。
「目立たない方がいい。まだ終わってないんだから」
電話越しの次長の声は、いつも通り抑えていたが、どこかほっとしているようにも聞こえた。
———
記事が出てから、事態は少しずつ動いた。
燃料監査室の室長——俺が最初に証拠を突きつけられて追い返された、あの担当者——が、内部調査の末に更迭された。渡辺統括と何度も連絡を取り合っていた記録が、通信記録から見つかったという。
「あの人だったんですね」
朱里さんに聞かされて、俺は妙に納得した。あの日、書類を毒物のようにつまみ上げた、あの手つきを思い出した。
それでも、渡辺統括や、その室長のさらに上に誰がいたのかは、結局、はっきりとは分からずじまいだった。国会でも一度だけ質問が出たが、「捜査中」という答弁のまま、いつの間にか話題にならなくなった。
朱里さんは、それを聞いて肩をすくめた。
「まあ、そういうものよね。トカゲの尻尾は切れても、頭までは、そう簡単に届かないか」
俺も、同じ気持ちだった。悔しさがないと言えば嘘になる。それでも、末端の俺たちが声を上げたことで、少なくとも一つの尻尾は、確かに切れた。それだけで、十分だとも思った。
———
陳さん一家が、その後どうなったのかは、分からないままだった。
常連だったあの中国人ドライバーも、あれきり消息を聞かない。時々、月極駐車場の前を通るたびに、俺はあの錆びかけた軽トラックのことを思い出す。今はもう、別の車が停まっている。
答えの出ないまま、時間だけが過ぎていくことはある。俺にできるのは、それを忘れないでいることくらいだった。
———
半年後、日本が正式に、石油と天然ガスの輸出を開始するというニュースが流れた。
新潟と青森の油田、茨城と岩手のガス田。国内需要をまかなってなお余る量が、これから船で世界に運ばれていく。かつて、中東から石油が消えたあの日から、まだ数年しか経っていない。
テレビの向こうで、大臣が誇らしげに会見していた。「日本は、資源輸入国から輸出国へ」という文字が、画面いっぱいに映し出された。
俺は、それをスタンドの休憩室で、朱里さんと二人で見ていた。
「立場が逆転したって、本当だったんですね」
「そうね。あの日、次長がそう言ったときは、正直、半信半疑だったけど」
朱里さんは、少し遠い目をしてつぶやいた。
「あの頃は、ただ、ガソリンが無くなるって、それだけで大騒ぎしてたのにね」
———
その年の秋、俺は羽鳥SSの副所長に任命された。
「村上さんがいなかったら、この店、とっくに潰れてたか、もっと汚い店になってたかのどっちかよ」
辞令を渡しながら、朱里さんはそう言って笑った。
「大丈夫ですか、俺なんかで」
「大丈夫。あなたが融通利かないの、もう知ってるから」
そのやり取りに、俺は思わず笑ってしまった。十年前、高校を出たばかりでこの仕事を始めたときには、想像もしていなかった肩書きだった。
———
その夜、村上家の食卓には、いつも通り味噌汁の匂いが漂っていた。
「副所長かあ」
さやかは、少しからかうような目で俺を見た。
「偉くなったね、壮太」
「偉くなったわけじゃないよ。ただ、辞めなかっただけだ」
「それが、一番難しいんじゃない」
さやかはそう言って、湯呑みにお茶を注いでくれた。窓の外には、夕焼けが赤く広がっていた。中東の枯渇から始まったあの日以来、俺たちが見てきた夕焼けは、数えきれないほどある。
黒幕の正体も分からないまま、消えた人たちの行方も分からないまま、それでも世界は少しずつ形を変えていく。全部が綺麗に片付いたわけじゃない。それでも、この食卓だけは、ずっと同じ温かさで、ここにあり続けている。
「明日も、仕事か」
「うん。朝六時から」
「早いね」
「もう、慣れたよ」
俺はそう言って、味噌汁を一口すすった。あの日、ガソリンスタンドの店員が公務員になると聞いて、頭が真っ白になったことを、ふと思い出した。あれから、いろんなことがあった。それでも今、俺はまだ、ここにいる。
窓の外の夕焼けが、少しずつ夜に変わっていく。明日もまた、朝が来る。それだけのことが、今はとても、確かなことのように思えた。
(第7話・了)
(枯渇の夜明け 第一部・完)




