第6話「家庭の危機」
渡辺統括が連行されてから、二週間ほどが経った。
羽鳥SSには表向きの日常が戻っていた。給油口を磨き、伝票を整理し、来客と短いやり取りを交わす。それでも俺は、以前とは違う目で、スタンドの周りを見るようになっていた。
同じ白い軽自動車が、何度か店の前をゆっくり通り過ぎるのに気づいたのは、そのころだ。ナンバーまでは覚えていない。ただ、何度も見た気がする、というだけだった。
朱里さんに話すと、彼女も少し眉をひそめた。
「気のせいならいいんだけどね」
その言い方が、逆に俺を落ち着かなくさせた。
———
その夜、さやかが浮かない顔で帰ってきた。
「どうした」
「ううん……」
さやかは少し迷ってから、パートで通っている経理事務所での出来事を話し始めた。
電話番号を知らないはずの相手から、事務所の固定電話に何度か無言電話がかかってきているという。最初は間違い電話かと思っていたが、さやかが出た瞬間だけ切れる、ということが続いていた。
「それと、大野さん……前に相談した、地方紙の記者さん。あの人から連絡があって」
「何て」
「『今回の件、うちでは扱えなくなった』って。理由は言えない、とだけ」
さやかの声は、努めて平静を保っているようだった。だが、その分だけ、俺には不安の色がはっきり見えた。
———
数日後、朱里さんが険しい顔で事務所に飛び込んできた。
「村上さん、変な人たちがいる。スタンドの裏、二百メートルくらいのところに、車を停めたまま、ずっとこっち見てる人たちがいるの」
俺たちはすぐに、玉川次長に連絡を取った。指定された、いつもの寂れた公園で落ち合う。
「半径五キロの件、覚えてるか」
玉川次長は前置きもなく、そう切り出した。
「あれは冗談じゃなかった。渡辺は捕まったが、あの密輸ルートを実際に動かしていたのは、渡辺よりもっと上だ。渡辺が持っていた情報の一部が、まだそっちに渡っていない。だから、周辺を洗っている」
「洗ってる、って……」
「証拠を出した人間、証言した人間、協力した人間。全部だ」
俺は、さやかの顔を思い浮かべた。家計簿、ドライブレコーダー、ママ友のネットワーク、地方紙の記者。あれは、俺たちにとっての武器だったはずだ。だが、向こうから見れば、それは「消しておくべきリスト」でしかない。
「次長、家族は……大丈夫なんですか」
玉川次長は、少し間を置いてから答えた。
「正直に言う。分からない。だが、目立たないように動くしかない」
その「分からない」が、俺の中で何よりも重く響いた。
———
その週末、俺が遅番でスタンドにいる間、さやかは一人で家にいた。
俺の携帯が震えたのは、閉店作業をしているときだった。さやかからの着信。いつもと違う、震えた声だった。
「壮太……誰か、庭に」
電話の向こうで、物音がした。俺は無我夢中で自転車を漕いだ。十五分の道のりが、永遠のように長かった。
家に着くと、玄関の鍵は開いたまま、さやかは居間の隅で膝を抱えていた。庭に面した窓ガラスに、小さな石がぶつけられたような傷があった。テーブルの上には、一枚の紙が置かれていた。文字はなく、ただ、さやかが録っていたドライブレコーダーの映像を印刷したような、粗い画像が一枚。
「何もされてない。ただ、窓の外に人影があって……石が飛んできて」
さやかは震える声でそう言った。俺は彼女を強く抱きしめた。腕の中で、彼女の心臓が、いつもよりずっと速く動いているのが分かった。
———
その夜、俺は初めて、腹の底から怒りを感じた。
これまでの理不尽——濡れ衣、SNSの炎上、規則と良心の板挟み——それらは、どこか「仕方のないこと」として飲み込んできた。だが、さやかに向けられた石は、違った。
俺は玉川次長に電話をかけた。
「次長、これはもう、俺一人の問題じゃない。うちの奥さんが狙われたんです。分からない、じゃ困るんですよ」
電話の向こうで、次長は珍しく黙り込んだ。
「……分かった。今夜中に、動く」
それだけ言って、電話は切れた。
———
翌朝、羽鳥SSの駐輪場に、見慣れない防犯カメラが二台、新しく設置されていた。玉川次長が、経産省の調査チームに頼んで、急遽手配したものだという。
さらに、朱里さんがさやかの職場や自宅周辺に、彼女自身のママ友ネットワークを通じて、さりげない「見守り」を頼んで回っていた。
「ご近所の目が一番の防犯なのよ」
朱里さんはそう言って、笑ってみせた。冗談めかしていたが、目は真剣だった。
そして、しばらく音沙汰のなかった大野記者からも、連絡が入った。
「村上さん、すみませんでした。上から圧力があって……でも、こっちも意地があります。うちでは扱えなくても、全国紙に知り合いがいます。そっちに情報、繋ぎますよ」
一つずつ、小さな支えが集まってきた。それだけで、何かが解決したわけではない。それでも、俺たちは一人じゃない、ということだけは、はっきりと分かった。
———
数日後、玉川次長から、短い報告があった。
「石を投げた人間は、末端の使い走りだった。捕まえても、大した情報は出てこない。だが、指示を出した人間の携帯の通話記録から、監査室にいた協力者の一人が浮かび上がった」
「監査室の……」
「詳しくはまだ言えない。ただ、渡辺よりも上に、まだ何人か繋がっている。トカゲの尻尾は、まだ何本も残っているということだ」
次長の声は相変わらず淡々としていたが、以前よりも、俺たちに何かを隠している感じが薄れたように思えた。少なくとも、今回だけは、はっきりと動いてくれた。
———
その夜、村上家の食卓で、さやかは少し疲れた顔をしながらも、いつものように味噌汁をよそってくれた。
「怖くなかったか」
「怖かったよ。今でも、ちょっと怖い」
さやかは正直にそう言ってから、少し笑った。
「でも、壮太が本気で怒ってくれたの、初めて見た気がする」
「悪いか」
「ううん。ちょっと、頼りになるって思った」
俺は何も言えず、味噌汁をすすった。窓の外には、新しく取り付けられた防犯灯の明かりが、庭をぼんやりと照らしていた。
まだ何も終わっていない。渡辺の上には、まだ誰かがいる。それでも今は、この小さな灯りの下で、さやかと二人、静かな夜を過ごせている。それだけで、十分だと思えた。
(第6話・了)




