第5話「やり返す」
東京湾を望む、巨大なガラス張りの本社ビル。その二十階にある燃料監査室のドアを、俺はノックした。隣には朱里さんが立っている。
机の向こうに座った担当の男は、羽鳥SSから送られてきた膨大なデータと書類の束を、まるで毒物でも扱うような手つきでつまみ上げた。
「防犯カメラのタイムスタンプのズレ、およびプリペイドカードの不正利用データに関する補足資料です」
朱里さんが淀みなく説明する。これさえ通れば、俺の無実は証明される。現場の人間が起こした単純なミスではなく、周到に仕組まれたシステム犯罪であることが明らかになるはずだった。
しかし、担当の男は書類をぱらぱらとめくっただけで、表情を変えずにデスクの上に置いた。
「……なるほど。一応、預かっておきます」
「一応、とは?」
「規定のフォーマットに則っていませんし、この種のデータの信憑性については、外部の専門家による精査が必要です。相応の時間がかかりますよ」
「精査って、見れば一目瞭然じゃないですか」
朱里さんが声を荒げた。
「それに」男は冷ややかな目を俺に向けた。「君の処分はまだ決まっていません。自宅待機を命じられている身分で、勝手に本社へ出入りするのはルール違反だ。今回の件は、改めてこちらで判断します。持ち帰ってください」
「おい、待てよ!」
俺が身を乗り出しかけたが、朱里さんがそれを制した。
「わかりました。では、その『判断』とやらを、いつまでにいただけるか、明記していただけますか」
事務的なやり取りの末、二人はすごすごとビルを後にした。ロビーに出ると、外の空気はひどく冷たかった。
「握り潰されたな」
俺は呟いた。吐き出した息が、白く凍った。
「ええ。監査室の中に、統括の手の者がいる可能性が高いわね」
朱里さんは悔しそうに唇を噛んだ。正攻法が通用しない恐怖が、じわりと二人を包み込んでいく。
その夜、帰宅したさやかに、俺は明るい声で嘘をついた。
「ああ、資料はちゃんと受理されたよ。あとは向こうが調べるだけだ。……たぶん、大丈夫」
夕食の味噌汁をよそいながら、さやかは何も言わずに俺の背中を見つめていた。その視線に、俺は気づかないふりをした。
———
事態が動いたのは、翌日の夕方だった。
俺の携帯に非通知の着信があった。指定された場所は、隣町の海沿いにある、寂れた公園の駐車場だった。
古いセダンの後部座席に乗っていたのは、玉川次長だった。これまでのような飄々とした態度は消え、疲労と緊張が混ざった顔で、俺たちを迎えた。
「本社監査室の動きは、予想通りだった」
「次長、あれはどういうことですか。証拠は明白なのに」
「渡辺は、本社の上層部にも食い込んでいる。末端の我々が正攻法で戦っても、逆に処分されるのがオチだ」
玉川次長はそう言って、ダッシュボードに封筒を置いた。中には、渡辺統括が関与するペーパーカンパニーの資金の流れを示す、生々しいデータが入っていた。
「これは……」
「私が経産省の内部調査チームと接触して、非公式に集めさせた証拠だ。羽鳥SSでの横流しは、単なる小遣い稼ぎじゃない。中国の国営企業への、国家ぐるみの燃料密輸ルートの一端だ」
驚愕する俺たちに、玉川次長は冷徹な事実を突きつけた。
「私は、この巨大なネットワークの全貌を暴くために、あえて泳がせていた。君たちが横流しの犯人に仕立て上げられたのも、計画の一部だ。……すまないと思っている」
狭い車内に、重い沈黙が流れた。俺の拳が震える。
「俺たちは……駒だったのか」
「そうだ。だが、君たちが現場で声を上げ続け、証拠を集めてくれたおかげで、この核心的な証拠に手が届いた。……あと少しだ」
玉川次長の言葉は、非情でありながら、紛れもない真実を帯びていた。
朱里さんが静かに口を開いた。「次は、どうすればいいんですか」
「この証拠を、マスコミにリークする。警察や経産省の汚職ルートを避けて、世論を動かすしかない。だが、失敗すれば、我々は国家機密を漏洩した罪で逮捕される」
覚悟を問う、玉川次長の視線。朱里さんは迷わずうなずいた。
「続けます」
俺は黙って、ハンドルを握りしめた。怒りと、それを上回る使命感が、俺を突き動かしていた。
———
帰宅後、俺はすべてをさやかに話した。隠し事は、もう限界だった。
濡れ衣のこと、密輸事件のこと、玉川次長に利用されていたこと。そして自分が、もう「ただのガソスタ店員」ではいられないこと。
話し終えて、俺はテーブルに顔を伏せた。怒鳴られるか、泣かれるかと思った。
しかし、さやかの反応は静かだった。彼女は俺の前に座り、その大きな手を包み込んだ。
「なんで……一人で抱えてたの」
非難ではなく、それは深い悲しみの問いだった。
「怖かったんだよ。お前や、朱里さんを巻き込みたくなかった」
「バカね。私が一番怖いのは、あなたが一人で傷ついて、誰にも頼れなくなることよ」
さやかの目から、ようやく涙があふれ出た。それは、陳さん一家が姿を消した夜、俺が抱えていた苦悩の理由を、さやかがようやく理解した瞬間でもあった。
「私にだって、できることはあるわ」
涙を拭ったさやかの目は、強い意志を宿していた。
「家計簿、あるでしょ。私が毎日つけてた詳細な記録。それと、あなたの帰宅時間を記録したドライブレコーダーの映像。あとね、ママ友ネットワークにも協力してもらうわ。『羽鳥SSの所長と壮太さんが嵌められている』って、噂を流すの。地方紙の記者も知ってるわ」
それは、一般家庭が持ちうる最強の武器だった。几帳面な記録と、地域社会の草の根の連帯。
「国家の陰謀には、生活者の意地で対抗するわよ」
———
翌日、本社での最終ヒアリングが開かれた。
会議室には燃料監査室の面々が並び、その横にはオブザーバーとして渡辺統括が、不敵な笑みを浮かべて座っていた。
「村上君、君の主張は認めるわけにはいかない。残念だが、懲戒解雇処分相当と判断せざるを得ない」
室長が宣告しようとしたその時、会議室のドアが開いた。
現れたのは、玉川次長だった。その後ろに、見知らぬスーツ姿の男たちが続く。経産省の調査チームだった。
「処分を決定する前に、これを見ていただきたい」
玉川次長がプロジェクターに資料を投影した。それは、朱里さんが一晩かけて分析したデータだった。
渡辺側は巧みにデータを改ざんしていたが、現場で給油する際の「ノズルのわずかな流量誤差」や「タンクの温度変化による体積補正」という物理的な記録までは、手が回っていなかった。
「このアナログな点検ノートと、デジタルの給油記録には、数パーセントの誤差が生じています。これは、システムが外部から操作され、特定のタンクの燃料が抜き取られたことを示唆しています」
さらに、朱里さんが差し出したICレコーダーからは、昨晩、渡辺が俺に圧力をかけ、口止めを図ろうとした音声が流れた。
「操作していたのは誰のIDか、ログを開示していただきましょうか」
形勢は逆転した。監査室員の一人が良心に耐えかね、議事録のコピーを差し出したことで、渡辺の関与は決定的となった。
渡辺統括は顔面蒼白になり、調査官に連行されていった。会議室には、重苦しい沈黙が広がった。
———
一週間後。羽鳥SSに、日常が戻ってきた。
本社からの正式な通達により、俺の無罪は確定し、復帰が認められた。
事務所で、俺と朱里さんは窓の外を見ていた。
「終わったな」
「ええ。でも、これは氷山の一角よ。渡辺はトカゲの尻尾切りに過ぎないわ。本当の黒幕は、まだ奥にいる」
朱里さんの言葉通り、事態はこれで完全解決とはいかなかった。玉川次長からは、「半径五キロの件は、まだ有効だ」という、不穏なメッセージが届いたままだった。
それでも、二人で笑った。正しい手続きと、日々の誠実さが、巨大な力に一矢報いたのだ。
———
その夜、村上家の食卓には、久しぶりに明るい笑顔が戻っていた。
「結局、俺はガソスタの兄ちゃんだよ。国をどうこうするなんて、おこがましいな」
ビールを飲みながらそう言うと、さやかはふふっと笑った。
「でもさ。その“ただのガソスタの兄ちゃん”を都合よく利用しようとした人たちは、ちゃんと困ってたじゃん」
「……十分か」
「十分よ。うちのご飯代くらいは、あんたの意地で守れてるんだから」
食卓を囲む家族の温かさ。それこそが、俺が守り抜いた何よりの戦利品だった。
(第5話・了)




