第4話「国境」
朝のニュースで、中国軍が北朝鮮領内の油田地帯へ侵攻し、一部を占領したと報じられた。アナウンサーの声はいつも通り落ち着いていたが、画面の下に流れるテロップだけが、なんだか妙に大きく見えた。
その日、事務所に来た朱里さんが、開口一番こう言った。
「村上さん、聞いた? 中国、今度は自分の国民を呼び戻し始めたらしいよ」
「呼び戻す……って、出稼ぎの人とかをですか」
「そう。表向きは『自主帰国支援プログラム』とかいう、優しそうな名前つけてるんだけどね」
朱里さんはそこで、ちょっと声を落とした。
「実態は、海外にいる中国人のパスポートの更新を、わざと止めてるんだって。期限切れにさせて、力ずくで国に呼び戻すってわけ」
「そんなこと、できるんですか」
「できるっていうか、やる国でしょう。前から、お金持ちが国外に逃げないように、出国そのものを止めたりしてたじゃない。今度はその逆をやってるだけよ。出ていった人間を、今度は戻す方に同じ力を使ってる」
朱里さんはひと呼吸置いて、続けた。
「北朝鮮の油田、占領したばかりでしょ。あそこの採掘とか建設に、ものすごい人手がいるみたいなの。国内だけじゃ全然足りなくて、海外にいる自国民を、なりふり構わず引っ張り戻してるんだって」
「……パスポートが切れたら、日本に住んでても意味ないですもんね」
「そういうこと」
俺はそのとき、まだそれを、遠い国の話くらいに思っていた。
———
団地の三階に住んでいた陳さん一家がいなくなったのは、その週末のことだった。
父親は近くの工場に勤めていて、娘はさやかとも顔なじみだった。小学校の帰り道、よく団地の前で立ち話をしていたらしい。俺も何度か、階段ですれ違って挨拶したことがある。
月曜の朝、郵便受けが空っぽになっていた。表札も外されていた。管理人さんに聞いても、「詳しいことは分からないけど、本国からの呼び戻しにかかったみたいだよ」としか言われなかった。
その夜、夕食の途中でさやかが箸を止めた。
「あの子、友達とお別れも言えなかったんだね」
俺は何も言えなかった。豚汁の匂いはいつもと同じなのに、今日はどうにも落ち着かなかった。
「……急すぎるよな」
それだけ言うのが精一杯だった。さやかは小さくうなずいて、それ以上は何も言わなかった。
———
深夜によく給油に来ていた中国人ドライバーも、ある日を境にぱったり来なくなった。名前は知らない。いつも同じ軽トラックで、夜十一時くらいに来て、無口だけど礼儀正しい男だった。
数日後、近くの月極駐車場で、その軽トラックを見つけた。タイヤの空気は抜け、荷台には雨水が溜まっていた。何日も、そのまま放っておかれているようだった。
俺はしばらく、その前に立っていた。ニュースで見る数字より、この錆びかけた一台の方が、よっぽど重かった。
———
スタンドの仕事にも、少しずつその空気が入り込んできた。
ある日、作業着姿の外国人グループが、正規の配給カードを持って給油に来た。手続き自体はいつも通りのはずだったが、カードの顔写真と、目の前の人物がどうも一致しない。
「兄の代理です」
そう言って、委任状らしき画像をスマートフォンで見せられた。印影はそれらしかったが、よく見ると角度がわずかにずれている。伝票を長く見てきた目には、その違和感がひっかかった。
俺は規則通り、給油を断った。相手は特に騒がず、静かに車を出していった。
その夜遅く、朱里さんから連絡が来た。「村上さん、SNS見た?」
見ると、羽鳥SSの名前を出して、「外国人だからって差別的な対応をされた」という投稿が広まっていた。実際とはずいぶん違う書かれ方だった。
水戸のときと同じだ、と思った。正しいことをしたつもりが、いつの間にか別の形にされてしまう。断るのが正解のはずなのに、その正解の方が火種になる。妙な話だった。
———
しばらくして、今度は深夜、身分証も配給カードも持たない外国人の男がスタンドに来た。分厚い現金の束を差し出しながら、必死な顔で何か訴えていた。
翻訳アプリの画面には、途切れ途切れの単語が並んだ。
「子供が」「病院」「間に合わない」
俺は規則通り、断った。それしかできなかった。男は肩を落として、車に戻っていった。テールランプが遠ざかるまで、俺はしばらくその場を動けなかった。
その夜、なかなか眠れなかった。規則は間違っていないはずなのに、正しいと言い切る自信がどうしても持てなかった。
翌朝、そのことを朱里さんに話すと、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「規則が人を守れないとき、何が残るんだろうね」
それだけだった。俺も、何も返せなかった。
———
その数日後の夜、スタンドの裏で、思いがけない人影に出会った。
あの、月極駐車場に放置されていた軽トラックの持ち主だった。
服はところどころ破れていて、顔には殴られたような痣があった。俺が声をかけようとすると、男は俺の腕をつかんで、震える声で言った。
「日本から、中国へ……燃料が、正規のルートじゃない形で……流れてる」
それだけ言うと、暗がりから黒い車が近づいてきて、男は引きずられるように連れていかれた。あっという間の出来事で、俺は何もできなかった。
残ったのは、生ぬるい夜の空気と、遠ざかるエンジン音だけだった。
———
それから間もなくのことだ。夜間、閉店作業をしていたスタンドに、数人の男たちが押しかけてきた。正規ルートを装った偽造の配給カードを持って、大量の給油を強要してきた。
俺が言葉に詰まっていると、朱里さんが動いた。防犯システムのボタンを押し、緊急通報の手続きを進める。サイレンのような警告音が響くと、男たちは慌てて逃げていった。
その場に、慌てて落としていったカードと、小さな端末が残されていた。
朱里さんと二人でデータを確認すると、そこに刻まれていた識別番号と暗号キーが、水戸の一件——俺の名前が紛れ込んでいた、あの伝票のデータと、完全に一致した。
「これ……」
朱里さんの声が、かすかに震えていた。
「村上さんの濡れ衣、偶然じゃなかったんだ」
水戸で摘発された横流し業者の帳簿は、国内の不正だけじゃなく、燃料不足に苦しむ国外の組織への密輸ルートとしても使われていたらしい。俺の名前は、そのルートを隠すための、都合のいい隠れ蓑だったということだ。
さらに数日後、たまたま担当していた「つくばみらい市周辺の新規法人リスト」の中に、水戸の摘発業者と同じ番地に登記された、設立から数か月しか経っていない法人の名前を見つけた。渡辺統括の名前は、その書類のどこにも出てこない。それでも、輪郭だけは、はっきり見えてきた気がした。
———
朱里さんは、その証拠を持って玉川次長に会いに行った。俺も同席したが、次長はやっぱり多くを語らなかった。
「羽鳥SSの周辺、半径五キロは、少し気にしておいた方がいい」
それだけ言って、コーヒーをひと口飲んだ。
「日本が“輸出国側”に回るって話、冗談じゃなくなってきたよ」
「向こうも、油田は取ったけど、まだ一滴も出てないからね。工事が終わるまでの間、どこかから引っ張ってこないと持たないんだろう」
朱里さんが「それって、どういうことですか」と詰め寄っても、次長は目を伏せたまま、「今は、まだ動かない方がいい」と、また同じ言葉を繰り返すだけだった。
朱里さんは悔しそうな顔をしていたが、それ以上は聞き出せなかった。
———
その夜、家に帰ると、さやかがいつものように「お帰り」と言ってくれた。俺はしばらく、何も返せなかった。
「どうしたの」
「いや……何でもない」
そう言いながらも、頭の中では、あの軽トラックの持ち主のことや、陳さん一家のこと、自分の名前が知らないところで使われていたことが、ぐるぐる回っていた。
「壮太、最近、疲れてるね」
「うん……なんか、自分がただのガソリンスタンドの店員でいられる時間が、もう終わりに近づいてる気がするんだ」
さやかは何も言わず、隣に座って、湯呑みにお茶を注いでくれた。窓の外は、もう真っ暗だった。
まだ何も分からない。ただ、今までの「日常」という言葉が、少しずつ違うものになりかけている気がした。
(第4話・了)




