第3話「濡れ衣」
配給制の解除まで、あと三か月というところまで来ていた。
朱里さんはこのところ、事務所に来るたびに機嫌がいい。「もうすぐ普通の商売に戻れるね」「そしたら村上さんも、あの融通の利かない顔しなくて済むね」と、からかい半分に言っては笑っていた。俺も、正直ほっとしていた。三年間、断り続けてきた誘いの数を思えば、それも無理はない。
その数日前、テレビのニュースで、インドネシアの油田が急速に生産量を落としているという報道が流れた。「枯渇の兆候」という言葉が、久しぶりに耳に飛び込んできた。中東から始まったあの現象が、また一つ、遠い国で繰り返されている。コメンテーターは「東南アジア全体の供給網に影響が出る可能性がある」と神妙な顔で語っていたが、朱里さんはそれを見ながら、「まあ、うちには関係ないかな」と、あくびまじりに言っていた。俺も、正直そのときはそう思っていた。世界のどこかでまた歯車が狂っても、この小さなスタンドの毎日は変わらない、と。
その日も、いつもと変わらない朝だった。給油口を磨き、伝票を整理し、来客と短いやり取りを交わす。昼過ぎ、事務所の電話が鳴った。朱里さんが取って、少し首をかしげた。
「はい……はい、村上ですか。少々お待ちください」
受話器を差し出された。相手は本社の監査部門を名乗った。淡々とした声で、「明日、水戸の件で確認したいことがある。出頭してもらいたい」とだけ言われた。
水戸の件。それがあの逮捕事件のことだと分かるのに、数秒かかった。
「……俺が、何かあるんですか」
「詳しくは明日、お話しします」
それだけ言って、電話は切れた。
朱里さんが心配そうにこちらを見ていた。「何、村上さん。今の、何の電話?」
「分かりません。水戸の件で、明日、話を聞かれるそうです」
「水戸って……あの、逮捕者が出た件?」
朱里さんの顔から、さっきまでの明るさがすっと消えた。
———
翌日、本社の一室に呼ばれた。灰色のテーブルを挟んで、見たことのない担当者が座っていた。名刺には「燃料監査室」とだけ書かれていた。
「村上壮太さんですね。水戸で摘発された業者の帳簿を精査したところ、一部の伝票に、羽鳥SSの取引番号と、あなたの名前が記載されているものが見つかりました」
目の前に、コピーされた紙が置かれた。見覚えのない伝票だった。数字も、印字された名前も、確かに「村上壮太」となっている。
「これは……俺は、こんな伝票、書いた覚えがありません」
「記録上は、あなたの端末からの入力になっています」
担当者の声には、責めるような響きはなかった。ただ、事実だけを積み上げるような、静かな口調だった。それがかえって怖かった。感情のぶつけ合いなら、まだ言い返せる。だが、これは数字と記録の話だ。俺には、それを覆す言葉がなかった。
「身に覚えがありません。俺は、この三年間、そういう誘いは全部断ってきました。朱里さ……所長に聞いてもらえば分かります」
「もちろん、双方から確認します。今日のところは、この件について当分の間、配給関連業務からは外れていただきます」
それだけだった。理由も、根拠も、こちらの言い分も、まだ何も固まっていないうちに、俺の立場だけが先に決まっていく。
帰りの電車の中で、窓の外を流れる景色を見ながら、俺はずっと同じことを考えていた。誰が、何のために、俺の名前をあの伝票に書いたのか。
———
家に帰ると、さやかが玄関まで出てきた。
「お帰り……どうしたの、そんな顔して」
「ちょっと、面倒なことになった」
俺は、聞かれるままに事の次第を話した。さやかは黙って聞いていたが、途中で箸を止めて、こちらをまっすぐ見た。
「壮太が、そんなことするわけないじゃない」
「俺も、そう思う。思うけど……証拠が、あるんだ。伝票に、俺の名前が」
「証拠って言ったって、誰かが書いたんでしょう。壮太が書いたんじゃなくて」
さやかの言葉は単純だった。単純すぎて、俺は少し笑ってしまった。
「そうなんだけどな。それを証明するのが、難しいんだよ」
さやかはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「分かった。とにかく今日は、ちゃんとご飯食べて。考えるのは、それからでいいよ」
いつもと同じ言葉だった。いつもと同じ言葉が、今日はやけに沁みた。俺は黙って、茶碗を手に取った。味は、あまりよく分からなかった。
———
数日後、仕事を外されたまま自宅で過ごしていると、朱里さんが訪ねてきた。珍しく、口調が荒かった。
「ちょっと、村上さん。私、絶対おかしいと思う」
「……朱里さん」
「あの伝票、うちの端末の入力履歴、私も確認したの。あなたのIDでログインされてる時間、あなた休憩でスタンドの外に出てたはずなのよ。休憩室の防犯カメラの時間と、伝票の入力時間、ずれてる」
俺は思わず顔を上げた。
「本当ですか」
「本当。すぐには本社に出せないけど、証拠になるはずよ」
朱里さんはそう言ってから、少し声を落とした。
「それとね、玉川次長にも聞いてみたの。水戸の件、詳しいでしょうって」
「何て言ってました」
「……『今は、まだ動かない方がいい』って。それだけ」
朱里さんは、それが不満そうだった。「あの人、いつもそう。知ってることは絶対言わないの。今回だって、絶対何か知ってるはずなのに」
俺は黙って、その言葉を頭の中で転がした。玉川次長が、何を知っていて、何を隠しているのか。今の俺には見当もつかない。ただ、「動かない方がいい」という一言だけが、妙に引っかかった。
「あと、もう一つ」朱里さんは続けた。「渡辺統括、覚えてる? 水戸の件、最初に情報くれた人」
「ええ」
「あの人、村上さんに何度も誘いかけてたでしょう、前に。全部断られてたって、うちの先輩から聞いたことあるの。今回の件、渡辺さんの管轄から出てきた資料なのよ。偶然かもしれないけど……」
朱里さんはそこで言葉を切った。それ以上は、確証がないから言えない、という顔だった。
俺は、断り続けてきた日々を思い出した。融通の利かないやつだと思われていただろう、と自分で言っていたあの頃だ。まさか、それが今になって、こんな形で返ってくるとは思わなかった。
———
「私、絶対に村上さんの潔白、証明するから」
朱里さんはそう言い切って、玄関を出ていった。その背中を見送りながら、俺は妙な気持ちになった。情けなさと、それでも誰かが自分を信じてくれているという安心感が、同時に胸の中にあった。
夜、さやかと二人で片付けをしながら、俺はぽつりと言った。
「朱里さんが、俺のために動いてくれてる」
「よかったじゃない」
「うん」
それだけしか言えなかった。窓の外はもう暗くて、街灯の光がぼんやりと道路を照らしていた。三年間、誰にも文句を言わせないように、真面目にやってきたつもりだった。それでも、こういうことは起きる。
俺にできることは、今はまだ、ここで待つことだけだった。
(第3話・了)




