第2話「落ち着く現場、動く世界」
羽鳥朱里が所長の席に就いて、三年が過ぎた。
二十五歳で現場を任されたとき、正直なところ俺は内心で心配していた。社長の娘という肩書きがちらついて、現場の人間がうまくついていけるか。しかしその懸念は、半年もしないうちに消えた。朱里さんは怒鳴らなかった。言い訳もしなかった。何かトラブルが起きるたびに、自分の足で現場に来て、誰よりも先に手を動かした。今では所長の娘という目で見ている人間は、このスタンドにはいない。
燃料の配給制が始まったころは、毎日がてんやわんやだった。来る客、来る客、みんな顔に焦りを貼り付けていた。「うちの分はあるのか」「なぜ隣の地区は多くもらえるんだ」——怒鳴り声が絶えない日が続いた。朱里さんはそのたびに丁寧に、しかしはっきりと説明した。俺はその後ろで、書類と数字と格闘していた。
自前の資源供給が軌道に乗り始めたのは、あれからおよそ一年後のことだ。新潟の油田、茨城のガス田。どちらも急ピッチで整備が進み、国内の供給量が目に見えて安定していった。現場がざわつかなくなった。来客の表情から焦りが消えた。政府は来年をめどに配給制の解除を発表し、ようやくこの三年間に一本、細い線が引かれたような気がした。
あの三年間、一番きつかったのはSNSの騒動だ。
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「○○SSは横流ししている」「○○運輸は闇取引で油を確保している」——そんな書き込みが拡散したのは、配給が始まってから半年ほど経ったころだった。名指しこそされなかったが、業界全体が疑いの目にさらされた。
政府がスタンドを国営化したのは、貴重な資源を守るためだ。公務員として縛ることで安定収入を保障し、不法な取引に歯止めをかける——その判断は正しかったと今でも思う。ただ、正しかったからといって、現場が楽だったわけではない。
俺はあのとき、配給管理の担当に任命されていた。
一日に数組、「融通を利かせてくれないか」という声が来た。直接やってくる者もいれば、電話越しに遠回しに匂わせる者もいた。どれも現場の権限を超えた話だった。俺には断ることしかできなかった。そのたびに「お役所仕事だ」「頑固なやつだ」という顔をされた。それでも、断り続けた。
ある日、朱里さんが事務所に駆け込んできた。
「大変よ、悪い話聞いてきたよ! 渡辺北関東統括から聞いたんだけど、水戸の方面で不正横流しをして逮捕者が出るみたいよ。うちも気をつけないとね!」
「……公務員待遇でもやる人はやるんですね」
俺は思わずそうつぶやいた。驚きというより、妙な納得だった。人間というのは、どんな仕組みの中に置かれても、隙さえあれば動く。それが善の方向とは限らない。
朱里さんは少し表情を引き締めて、「うちは絶対にそんなことしないから。村上さんがいてくれるから安心なんだけどね」と言った。
俺は苦笑いするしかなかった。褒められているのか、釘を刺されているのか、正直よく分からなかった。
その騒動も、自前資源の供給開始があっという間に吹き飛ばしてくれた。横流しする動機そのものが薄れた。人間というのはやはり、状況に動かされる生き物だと思った。
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配給制の騒ぎが落ち着いてから数日後、またも朱里さんが飛び込んできた。今度は少し声のトーンが違った。
「大変よ、また悪い話! 玉川次長が言ってたんだけど、ロシアも枯渇してきているらしいよ」
「……サハリンもですか」
「大陸はもちろん、サハリンもヤバいみたい。次長がね、確定じゃないけど既存の油田が次々に枯れていくのは何か関係があるかもしれないって言ってたの。でも今はまだ公表していないみたい。おそらく中国から買うんじゃないかしら」
俺は少し考えた。カリフォルニアの油田も、あの報道が出てからすっかり話題に上らなくなった。大国アメリカですら、もう自前の油に頼れない時代に入っている。
「そうですね。カリフォルニアの油田も枯渇しましたし、何か世界的に関係ありそうですよね。大国アメリカでも油なしとなると、これから大変ですね」
「それはそうなんだけど、村上さん——今度は日本が輸出する側になるかもしれないのよ。立場が完全に逆転したってこと!」
俺はしばらく、その言葉を頭の中で転がした。輸出する側。十年前、このスタンドで給油ノズルを握っていたころには、想像もしなかった言葉だ。
「すごい話ですね……」
それ以上の言葉が出なかった。すごいのか、恐ろしいのか、自分でもうまく整理できなかった。
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エネルギーの地図が塗り替わるのと並行して、日本の地理的な重心も動き始めていた。
もともと日本は都市型の集中構造で、人口の偏りが著しかった。ところが今回の資源発見が、長年人口が減り続けていた地域を一変させた。青森から新潟にかけて点在する油田、茨城から岩手にかけて広がる天然ガス田——その周辺に、関連企業と働き手が大量に流れ込んだ。ゴーストタウンになりかけていた集落に、にわかに活気が戻り始めている。
さらに経産省がつくばみらい市への移転を決定した。ガスや油に関わる企業の本社誘致も始まり、国から補助金も下りるという。三年前には想像もできなかった景色が、現実として動き出していた。
ある日、朱里さんが珍しく少し得意げな顔で話しかけてきた。
「ねえ、知っていると思うけど、経産省のつくばみらい移転に合わせて、うちも土地を確保しているのよ。玉川次長から数年前に教えてもらって、少しずつ買い始めていたの。最近は逆に売ってくれって連絡が来るくらい。本社を建てるの、難しいみたいね」
「先を読んでいたんですね、次長も朱里さんも」
「まあね」と朱里さんは肩をすくめたが、口元はしっかり笑っていた。「うちの父も最初は半信半疑だったんだけど、今となっては大正解よ」
玉川次長という人は、やはり何かを知っている。情報が早すぎる。味方か、どこか別の思惑があるのか——俺にはまだ分からない。ただ、朱里さんが信頼しているなら、今は黙ってその恩恵の端に引っかかっていればいい。そう自分に言い聞かせた。
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早番が続く週は、帰りが早い。
自転車で十五分ほどの道を漕いでいると、次第に頭が空っぽになっていく。今日の配給書類、電話の相手、朱里さんの情報——全部が、ペダルの回転とともに少しずつ遠ざかっていく。
玄関の鍵を開けると、台所の方から温かい匂いが漂ってきた。何を作っているのかは分からない。でもその匂いを嗅いだ瞬間、腹が鳴った。自分でも驚くほど大きな音だった。
「お帰り」
さやかの声が奥から聞こえた。それだけで、肩の力が抜けた。今日一日が終わったと、体が先に理解する。
「ただいま。いい匂いだな」
「豚汁。寒くなってきたから」
洗面所で手を洗いながら、俺はその言葉の重さを静かに味わった。豚汁。それだけのことが、今日という日をちゃんと締めくくってくれる。
食卓についてしばらくすると、さやかが向かいに座った。湯気の立つ椀を両手で包むようにして、少し首をかしげた。
「ねえ、最近また朱里さんから何か聞いてる? なんか顔に出てるよ、壮太」
「……そんなに出てるか」
「出てる出てる。眉間にこうなってるもん」と、さやかは自分の眉間を指でつついてみせた。
俺は苦笑いして、箸を置いた。
「ロシアの油田が枯れてきているらしい。サハリンも。玉川次長が言ってたって朱里さんから聞いた」
「ロシアも……」さやかは椀を置いて、少し宙を見た。「じゃあ、日本の油がますます大事になるね」
「そういうことになる。朱里さんは日本が輸出できるようになるって言ってた」
「すごいね」
さやかの「すごいね」は、驚きと、少しの不安が混ざったような声だった。喜んでいいのか、構えた方がいいのか——俺と同じで、彼女もうまく決めかねているようだった。
「まあ、俺には直接どうにもできないけどな」
「でも、壮太がスタンドでちゃんとやってるから、そういう大事なものが守られてるんじゃないの」
さやかはそう言って、また椀に口をつけた。大げさな慰めではなく、ただそう思ったから言った、というような口ぶりだった。
俺は何も答えなかった。豚汁をひとくち飲んで、窓の外を見た。夜の住宅街は静かで、どこかの家に明かりが灯っていた。
世界がどう動こうと、今夜ここには豚汁がある。それで十分だ、と今は思う。
(第2話・了)




