第13話「フェードアウト」
中国東北部の情勢が一気に悪化する少し前、私は資料室で、古い「ロシア情勢」のファイルを何気なく開いたことがあった。
ロシアの資源が尽きたのは、羽鳥SS事件があった時代から、さらに数年前のことだったらしい。枯渇が明らかになってから、主要な資源利権が周辺国や国際機関へ流出するまで、わずか半年しかかからなかったという。そこから三年ほどかけて、あの広大な国は、モスクワ共和国、いくつもの小国家、そして日本・中国・カザフスタン・EU・フィンランド・ノルウェーによる分割統治へと、静かに解体されていった。
サハリンと千島列島が日本の管理下に入ったのも、その一環だった。資料の中では、それはすでに「歴史」として、淡々とした年表の形で記録されていた。
今、中国東北部で起きていることは、あのときのロシアと、驚くほどよく似た構図に見えた。国が大きすぎて、自分の重みを支えきれなくなる。そういう崩れ方が、確かにあるのだと、今さらながら実感した。
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中国東北部の情勢は、それから一気に悪化した。
複数の軍管区が、資源地域の実効支配を巡って、互いに小競り合いを始めているというニュースが、連日のように流れた。中央政府の統制は、もはやほとんど機能していないように見えた。
省内の分析資料によれば、中国が抱え込んでいた負担は、想像以上に重かったらしい。北朝鮮を巡る戦争の後始末、油田の共同開発への継続的な関与、事実上の属国となった韓国への支援、そして旧ロシア極東——沿海州、ハバロフスク、バイカル以東、南シベリアという、途方もなく広い土地の統治。そのどれか一つだけなら、まだ耐えられたのかもしれない。だが、それが全部同時に、中央政府の肩にのしかかっていた。
軍という組織は、金と資源が続く限りは従順だが、それが滞った瞬間、真っ先に自分たちの取り分を主張し始める。中国という国は今、まさにその瞬間を迎えていた。
私が追いかけていたあの企業も、その渦の中にあった。玉川さんと洗い直した資本関係の先には、渡辺という人物が生前——いや、あの事件当時から繋がっていたとされる、ある「役職」の存在が浮かび上がっていた。
個人の名前ではなく、役職。密輸ネットワーク全体を統括する、特定のポスト。
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「見つけたよ」
ある晩、玉川さんから電話があった。
「そのポストに、今、誰が就いているか」
「本当ですか」
「ああ。ただ——」
玉川さんの声が、珍しく歯切れ悪くなった。
「そのポストがあった企業自体が、三日前、対立する軍管区に接収されたらしい。ポストに就いていた人物は、行方不明。逃げたのか、巻き込まれて死んだのか、今のところ分からない」
私は、しばらく言葉が出なかった。
「……追いつけなかった、ということですか」
「そうとも言えるし、違うとも言える。少なくとも、あのネットワークを支えていた土台は、もう存在しない」
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翌日のニュースは、中国東北部の軍事的な衝突を、大きく報じていた。
私が追いかけていた企業のことも、行方不明になった人物のことも、そのニュースの中では、ほんの一行にすら触れられていなかった。もっと大きな出来事——都市部での戦闘、避難民の発生——が、画面を埋め尽くしていた。
結局、私たちが半月かけて追いかけていたものは、世界的に見れば、無数にある混乱の中の、ごく小さな一つに過ぎなかったらしい。
達成感は、ほとんどなかった。悪を暴いて、誰かを追い詰めて、正義が勝った、という感覚は、どこにもなかった。ただ、追いかけていたものが、追いつく前に、勝手に消えてしまった。それだけだった。
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その週末、私はPMCの警備報告書を、もう一度、最初から読み返してみた。
これまで何百回と目を通してきた、ただの数字の羅列。負傷者数、死者数、配置人員。
今回、初めて、その数字の一つ一つに、名前がついているかもしれない、と想像してみた。サハリンで、資源の出ない土地を、それでも守り続けている誰か。カムチャツカで、寒さの中、任務についている誰か。
彼らのほとんどは、私が今回追いかけていたような、密輸や陰謀とは無関係の、ただの仕事として、そこにいるだけなのだろう。
村上さんが言っていた言葉を、ふと思い出した。
「ここで、毎日ちゃんと仕事して、家族と飯食って。それができてるなら、まあ、それでいいかなって」
あの言葉の重みが、今になって、少しだけ分かるような気がした。
———
「フェードアウト、か」
玉川さんと最後に会ったとき、私はそうつぶやいた。
「そうだな。倒したわけじゃない。ただ、消えた」
「悔しくないんですか」
「悔しいよ。でも、悔しさだけで動いていたら、身が持たない」
玉川さんは、そう言って、コーヒーを飲み干した。
「君は、これで満足か」
「……分かりません。ただ」
私は、少し考えてから続けた。
「前より、世界のニュースが、地図の上の話に見えなくなりました」
それだけが、今回の、確かな収穫だった。
(第13話・了)




