第12話「食えない先輩」
その人が現れたのは、庁舎の駐車場だった。
仕事帰り、車に向かって歩いていると、見覚えのない初老の男性が、壁に寄りかかるようにして立っていた。
「橘澪さん、だね」
「……どちら様でしょうか」
「玉川といいます。前は、燃料関係の卸業者にいた。今は、まあ、いろいろと」
名刺を渡されたが、肩書きは「顧問」としか書かれていなかった。何の顧問なのかは、書いていなかった。
「羽鳥SSに、行ったそうだね」
私は、思わず身構えた。
「……なぜ、それを」
「古い知り合いなんだよ、あそこの所長とも、副所長とも」
玉川と名乗ったその人は、それだけ言って、少し笑った。食えない笑い方だった。
———
近くの喫茶店に連れて行かれ、向かい合って座った。
「単刀直入に言うけど」玉川さんは、コーヒーを一口飲んでから続けた。「君が引っかかってる件、あれは、四年前の事件の続きだよ」
「羽鳥SS事件、ですか」
「そう。あのとき、私も少し関わってた。渡辺という男の上に、もう一段、上がいた。結局、正体は分からずじまいだった」
「それが、今回の件と繋がっていると」
「繋がってる可能性が高い。中国東北部のあの企業、優遇されてた国、シンガポール経由の積み替え、PMCの配置。君が拾ったその四点、悪くない着眼点だ」
私は、少し身構えたまま、コーヒーカップに手を伸ばした。
「どうして、私にこの話を」
「君が、自分で調べ始めたからだよ。誰かに頼まれてやってるわけじゃないだろう」
その通りだった。誰にも指示されていない。ただの、個人的な引っかかりから始まったことだった。
———
「そもそも、PMCが、なぜあんな場所にいるのか。君は、ちゃんと分かっているか」
玉川さんは、コーヒーカップを両手で包みながら、そう切り出した。
「警備会社、ですよね。サハリンとか、カムチャツカとか」
「建前はな。だが、あれはもともと、法律の隙間から生まれたものだ」
玉川さんによると、話はこうだった。憲法や自衛隊法は、あくまで「日本国」が海外で武力を使うことを縛るものであって、民間企業が海外の資産を守るために武装警備員を雇うこと自体は、もともと明確には禁じられていなかったという。
「邦人保護とか、海外プラントの警備とか、昔から水面下では似たようなことをやってた業者がいた。それが、資源インフラが国の生命線になったことで、堂々と表に出てきた。『海外資源インフラ等警備事業特別措置法』とかいう、長ったらしい名前の法律まで作ってな」
「建前は民間、実態は……」
「役員も幹部も、自衛隊出身者だらけだよ。総合商社と防衛メーカーが金を出し合って作った会社が、いくつもある」
私は、PMCの警備報告書に並んでいた、無機質な数字の羅列を思い出した。あの背後に、そういう成り立ちがあったとは、考えたこともなかった。
———
「それだけじゃない。アメリカとの関係も、この数年でだいぶ変わった」
「輸出国になって、優遇供給してる、というのは知っています」
「知ってるのは表側だけだ。アメリカは、もう昔ほどの大国じゃない。資源が枯れたのは、向こうも同じだからな」
玉川さんは、指を折りながら続けた。
「ヨーロッパから真っ先に手を引いた。中東にはもう用もない。アジアだって、ハワイとグアムより先には、腰を据える余力がない。極東じゃ、韓国から撤退して、残った戦力を日本海側に寄せてる」
「……その撤退が、韓国が中国の顔色しか見なくなった、あの流れに」
「そう。あれの引き金は、アメリカだ」
私は、少し息を呑んだ。これまで「韓国の変化」として処理してきた出来事の裏に、こんな理屈があったとは思っていなかった。
「じゃあ、アメリカは、日本に何を求めてるんですか」
「核だよ」
玉川さんは、あっさりとそう言った。
「向こうにまだ残ってる、唯一まともなカードが核抑止力だ。燃料がなきゃ、空母も戦闘機もただの鉄くずだからな。だから、日本海側の基地に、核運用の一部を組み込む形で、こっちの燃料と引き換えにしてる。NATOがやってる『核共有』ってやつに近い」
「専守防衛とか、非核三原則は……」
「建前だけは残ってるよ。実態は、もうだいぶ違うがな」
———
「怖い話、ついでにもう一つ」
玉川さんは、少し声を落とした。
「去年、スパイ防止法が通った。憲法も変わって、自衛隊は『国防軍』になる予定だ。これから先、こういう話を嗅ぎ回るのは、以前より、ずっと分の悪い賭けになる」
「それを、私に教えるんですか」
「教えておかないと、君が知らないまま踏み込んで、取り返しのつかないことになる方が困る」
玉川さんは、そう言って、コーヒーを飲み干した。
「君が拾った四点は、この大きな絵の、ほんの一部でしかない。それでも、絵の全体を知らずに歩くより、知ってて歩く方が、まだましだろう」
私は、何と答えていいか分からなかった。ただ、自分が思っていたよりも、ずっと大きな仕組みの中に、片足を踏み入れてしまったことだけは、はっきりと分かった。
———
翌週から、私は二つの顔を持つことになった。
表向きは、いつも通りの供給調整担当。課長からは「あの企業の件は、上で処理するから、君はこれ以上触れなくていい」と、やんわり釘を刺された。
「分かりました」
私は素直にそう答えた。だが、業務時間の外で、玉川さんから渡された古い資料を読み込み、あの企業の資本関係を、自分なりに洗い直す作業を続けていた。
「橘さん、最近、帰り遅いね」
同期にそう言われるたび、私は曖昧に笑ってごまかした。
組織の中では、波風を立てない人間として通っていたはずだった。それが今、組織の公式な見解と、玉川さんが示す「もう少し踏み込んだ真実」との間で、少しずつ引き裂かれ始めていた。
———
「これ、外に漏らしたら、まずいことになりますよね」
ある夜、資料を挟んで、私は玉川さんにそう尋ねた。
「まずいだろうね。君の立場も、危うくなる」
「それでも、続けろと」
「続けろとは言わない。ただ、私は、あのときも同じことを、別の若い二人に頼んだ」
玉川さんの声が、少しだけ低くなった。
「あのときの二人は、濡れ衣を着せられて、家族まで危険にさらされた。それでも、最後までやり通した」
「……羽鳥SSの、村上さんと、羽鳥さん」
「そう。今の君の立場は、あの二人ほど追い詰められてはいない。だから、無理はしなくていい。それでも、もし続けるなら」
玉川さんは、そこで初めて、まっすぐに私を見た。
「今度は、私も、もう少しちゃんと矢面に立つよ。あのときの詫びのつもりで」
その言葉に、私は何と返せばいいのか分からなかった。ただ、この食えない先輩が、少なくとも今回は、逃げるつもりがないらしいことだけは、伝わってきた。
(第12話・了)




