第10話「羽鳥SSの記憶」
引き出しにしまったコピーは、結局、一週間経っても捨てられなかった。
このままでは仕事に集中できない。そう自分に言い訳をして、私は休憩時間に、省内のデータベースで過去の類似案件を検索してみることにした。「資源供給」「不正」「密輸」。思いつく限りの単語を組み合わせて、何度か検索をかけた。
出てきた案件のほとんどは、すでに決着済みの、小さな横領や在庫管理のミスだった。その中に一件、やけに分厚い記録が紛れていた。
「羽鳥SS事件」
見覚えのない名前だった。日付を見ると、今から四年ほど前のものらしい。
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昼休みを丸ごと使って、私はその記録を読み込んだ。
地方の小さなガソリンスタンドの一従業員が、国家ぐるみの燃料密輸事件に巻き込まれ、濡れ衣を着せられた末に、証拠を集めて名誉を回復したこと。密輸の中心にいた地方統括職員が逮捕されたこと。そして、その先に「もっと上」の存在が示唆されながら、結局は正体が分からないまま、事件そのものが立ち消えになったこと。
資料の最後には、簡潔にこう記されていた。
「関与が疑われる上位組織については、継続調査の必要性があるとされたが、その後の追跡記録は確認されていない」
私は、その一文を、しばらく見つめていた。
自分が今、目の前の書類で感じている違和感と、この古い事件との間に、はっきりした繋がりがあるわけではない。それでも、「上の存在が、最後まで分からないまま終わる」という構図が、妙に頭に残った。
———
その週末、実家からの帰り道、私は少し遠回りをして、資料に載っていた「羽鳥SS」に立ち寄ってみることにした。
深い理由はなかった。ただ、書類の中の話を、一度、実物として見ておきたかった。
スタンドは、今もそのままの場所で営業していた。事務所の窓から、作業着姿の年配の男性が出てくるのが見えた。
「すみません、少しお伺いしたいことがあるのですが」
名刺を出すと、男性は少し驚いた顔をした。
「資源エネルギー省……ですか。うちに何か」
「昔の記録を拝見していて。差し支えなければ、少しだけお話を」
男性は、少し考えてから、事務所の中に案内してくれた。副所長の肩書きが、名札に入っていた。村上、と読めた。
「あの事件のことですか。……もう随分前の話ですよ」
村上さんはそう言って、コーヒーを出してくれた。
「濡れ衣を着せられて、その後、証拠を集めて反撃したと記録にありましたが」
「まあ、そうですね。大変でしたけど、今となっては、いい思い出みたいなものです」
あっさりとした言い方だった。国家規模の密輸ネットワークに巻き込まれた経験を語るにしては、あまりにも軽い口調で、私は少し戸惑った。
「怖くなかったんですか。相手が、国家ぐるみの組織だったわけですよね」
「怖かったですよ、そりゃあ。でも、俺にできることなんて、目の前のことをちゃんとやるくらいしかなかったので」
村上さんは、それ以上のことは、特に何も付け加えなかった。
———
「本当の黒幕」のその後について尋ねると、村上さんは少し肩をすくめた。
「結局、分からないままです。噂では、中国側の何かと繋がってたって話もありましたけど……本当のところは、俺たちにも分かりません」
「悔しくは、なかったんですか」
「悔しかったですよ。でも」
村上さんは、窓の外のスタンドに目をやった。
「ここで、毎日ちゃんと仕事して、家族と飯食って。それができてるなら、まあ、それでいいかなって、今は思ってます」
私は、その言葉をどう受け止めればいいのか、うまく整理できなかった。
私が扱っている資料の中では、密輸事件も、資源の優遇供給も、すべて数字と経緯として整理されている。だが目の前のこの人にとっては、それは「毎日の仕事」と地続きの出来事だったのだ。
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スタンドを出るとき、事務所からもう一人、女性が顔を出した。所長、と名札にあった。羽鳥、という苗字だった。
「あら、村上さん、お客さん?」
「省の方が、昔の事件のこと聞きに来て」
「懐かしいわね。もう、そんな昔の話になったんだ」
羽鳥さんは、そう言って笑った。屈託のない笑い方だった。
私は二人に礼を言って、車に戻った。エンジンをかけながら、資料の中の名前が、急に立体的な人間として頭の中に残っていることに気づいた。
これまで、私が扱ってきた数字の向こうにも、きっとこういう「毎日の仕事」を積み重ねている誰かが、たくさんいるのだろう。
そう考えたのは、今日が初めてだった。
(第10話・了)




