ep.39「帰り道」
BAR《月影》を出ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。
店内の温もりとは違う、少しだけ現実に引き戻されるような感覚。
「じゃ、俺はこっちだから。またな」
嶺二が軽く手を上げる。
「ああ。またな」
背を向けた嶺二の迷いのない足取りは、すぐに夜の中へと溶けていく。
「またね、兄貴」
蓮也も軽く手を振る。
◇
そのまま蓮也と二人で並んで歩く。
言葉はない。
だが、やはり蓮也との間の沈黙も苦ではなかった。
足音だけが静かに重なる。
夜の街は、昼間よりも輪郭がはっきりしているように感じる。
音が少ない分、余計なものが削ぎ落とされている。
「……兄貴は今日も静かだったわね」
蓮也がぽつりと呟く。
「そうか?」
「そうよ」
少し考える。
今日の店内。
会話。
時間の流れ。
「……口数が少ないだけじゃないか?」
「だから静かって言ってるの」
くすりと笑われる。
それ以上は続かない。
それでいい。
◇
信号待ち。
赤い光。
横断歩道の白線。
隣に立つ気配。
「……あんたさ」
蓮也がふと口を開く。
「何だ」
「ほんと、普通に馴染んでるわよね。こっちの世界に」
「そうか?」
「そうよ。最初の頃スマホにビビってたの誰だと思ってんの」
「……あれは構造が不明だったからな。それに怯えてはいないぞ俺は」
「今はもう理解済みなんでしょ?」
「もちろんだ。ハイスコアキープもしている」
蓮也が呆れたように小さく笑う。
信号が青に変わり、再び歩き出す。
◇
しばらくして、マンションの前に着く。
「俺はもう少し……この空気を満喫してから行く」
「じゃ、先入ってるわね」
「ああ」
エントランスの扉が開く。
「ちゃんと来なさいよ?」
「分かっている」
軽く手を振って、蓮也は中へ入っていった。
◇
一人、外に残る。
夜特有の静かな空気。
人の気配はあるが、遠い。
「……」
空を見上げる。
理由はない。
ただ、そうしただけだ。
街灯の光が、空の暗さをわずかにぼかしている。
(……)
今日のことを思い返す。
店の空気。
グラスの感触。
会話。
短い言葉のやり取り。
どれもーー
(……平和だな、この世界は)
違和感もない。
最初に感じていた“異質さ”は、もうほとんど残っていない。
それが良いのか悪いのかは、分からない。
だが。
(……悪くない)
小さく息を吐く。
視線を落とす。
アスファルト。
伸びる影。
静かな道。
ここでの生活。
朝、起きて。
適当に時間を潰して。
外に出て。
時折蓮也のBARを手伝う。
そして二人で帰り、また同じように過ごす。
単調と言えば単調だ。
だがーー
(……退屈ではないな)
むしろ。
(……満ち足りている、か)
言葉にするなら、それが近い。
理由は分からない。
何かを得ている感覚。
それだけは、確かにある。
「……」
小さく首を振る。
考えすぎる必要はない。
そういうものなのだろう。
この世界の空気。
人との距離。
時間の流れ。
どれも、自分にはーー
「……合っているな」
ぽつりと呟く。
それだけ言って、視線を前に向ける。
扉へと足を進める。
その途中。
ほんの一瞬だけ。
「……」
胸の奥に、微かな違和感。
何かを思い出しかけたような、曖昧な感覚。
「……まあいい」
すぐに消える。
気にするほどのものではないだろう。
今はまだ。
(……穏やかだな)
エントランスの扉を開ける。
いつもと同じ場所。
いつもと同じ空気。
その中へ、何の迷いもなく足を踏み入れた。




