ep.36「理解不能な記号」
本を開く。
視線を落とし、文字を追う。
あれからずっと繰り返すこの作業。
「……」
読んでは理解する。
問題ない。
ーーはずだった。
「……何故だ」
ページの一点で視線が止まる。
そこに書かれている文字。
「……同じだな」
指でなぞる。
そして、次の行。
「……違う?」
目を細める。
さらに別の行。
「……いや、同じだろう」
もう一度確認する。
「……違うな」
沈黙。
「……何故だ」
◇
「さっきから何?」
蓮也がソファに寄りかかりながら言う。
「本と睨めっこして」
「文字だ」
本を持ち上げる。
「この文字。同じ形に見えるが、意味が違う」
「あー……」
察した顔。
「どれ?」
手元の本を覗き込まれる。
「あ、これ?“生”ね」
「……“生”」
「そう」
「意味は」
「えっとね」
少し考える。
「“いきる”、“なま”、“せい”、“しょう”……あと“うまれる”とか」
「……」
沈黙。
「……何だそれは」
「漢字よ」
「一つの文字に複数の意味を持たせる必要があるのか?」
「そういうものなのよ」
「合理性に欠けるな」
「またそれ」
ため息。
「じゃあこれは?」
別の文字を指す。
「“上”」
「意味は」
「“うえ”、“じょう”、“あがる”、“のぼる”……」
「……」
沈黙。
「……何だそれは」
「だから漢字よ」
「……おかしいだろう」
真顔で言う。
◇
「待て」
手元の本を閉じる。
「整理する」
「はいはい」
蓮也が適当に相槌を打つ。
「同じ文字に複数の読みが存在する」
「合ってる」
「さらに意味も変化する」
「そうね」
「文脈によって判断する必要がある」
「そうそう」
「……面倒だな。いや」
首を振る。
「面倒というより……不親切だ」
「そこ!?」
思わず声が上がる。
「もっと他に何かあるでしょ!?」
「ない。これは設計段階で問題がある」
「言語に設計とか言うんじゃないわよ!」
「……まだあるぞ」
再び本を開く。
「これは何だ」
「どれ?」
「“今日”」
「あー」
「“きょう”だろう」
「そうね」
「ならばこちら」
次のページを指す。
「“昨日”」
「“きのう”」
「……何故だ」
「え?」
「何故“今の日”と書いて“きょう”で、“昨の日”と書いて“きのう”になる」
「……」
蓮也が黙る。
「説明しろ」
「……雰囲気?」
「却下だ。納得できない」
「無茶言わないでよ!」
◇
「結論」
本を閉じる。
「漢字は理解不能だ。だが」
指で紙面を軽く叩く。
「面白い」
「……は?」
「規則性が不完全だ」
「褒めてる?」
「例外が多い」
「褒めてるの?」
「だからこそーー」
少しだけ口角が上がる。
「解析しがいがある」
「うわ出た」
呆れた声。
だが、止まらない。
「よし」
ページをめくる。
「次だ」
「まだやるの?」
「当然だ」
「飽きないの?」
「未知だぞ?」
当然だろう、と言わんばかりの顔。
「……ほんと、あんたって」
蓮也が小さく笑う。
その隣で再び文字を追い始めた。
理解不能。
非効率。
非合理。
だがーー
(……やはり)
ページをめくる。
思考を巡らせる。
(面白いな)




