同市K町在住 ユカリの場合④
ユカリがこの劇団『ファイト!』の中で自分の役割を見つけるのに、そう時間はかからなかった。基本的には小道具の制作を手伝い、空いた時間には稽古に打ち込む皆の姿を観察する。それを週に1、2回のペースで繰り返す。
他の団員がおしなべて高齢な事もあって、毎週欠かさず稽古などの集まりに顔を出している人間は少ない。主宰のワタナベですらしばしば姿を見せないでいる中、彼女は律儀に通い続けていた。ユカリの他、ほとんど毎回参加していると思われるのはタカハタ――あの長い顎髭の、演技がかった口調の老人――とニシヤだけだった。
ほとんどのメンバーは用事や持病によって、継続的な参加を困難にさせられていた。特に多いのは骨や筋肉の不調。彼らは芝居をするにあたって、首、肩、腰、膝といったあらゆる関節に何らかの問題を抱えながら演じている。一箇所のみの者もいれば、ほとんど全ての可動部にガタがきている物もいる。それに加えて心臓や肺、肝臓といったより内側の問題や、中には精神的な病と闘いながら参加している者もいる。彼らの身体を少しずつ、だが確実に食い散らかそうと、日に日に局部腐食は進行を続ける。
そういう意味では、ユカリの当初の推察は半分当たっていた。演劇とは人間の心と身体によって表現される、人間の心と身体のあり方そのものと言える。それゆえに、ある程度のバイタリティを備えた人間でなくては、やっていけない面もある。
さて、代わる代わるやってくるあらゆる痛みに耐えながら、それでも舞台に上がろうとする老人たちの姿には、ある種の気迫があった。60、70を過ぎてから手に入れた自分たちの居場所で、役割を全うせんと奮闘する海千山千の兵士たち――実際のところ、舞台における団員の表現力や立ち振る舞いは、素人目に見てもレベルが低かったにも関わらず(ニシヤだけは別格だったが)、ユカリの目にはそう映っていた。
ユカリはそんな彼らの事を少しずつ気に入ってきた。力になりたい、と。単なる趣味の集まり、長い余暇を塗りつぶす為の寄せ集め――例え本質がそうであったとしても、彼らは本気だったし、それを否定する事は誰にも出来なかった。
やがて8月になった。全身にのしかかるような重たい日差し。まとわりつく湿気――そんな日々が続く季節にも、劇団『ファイト!』はめげずに活動を続けていた。
今日は市営体育館を借りての、本格的な稽古の初日だった。ユカリが午前9時の集合時間の15分前に到着した頃には、もう大半のメンバーは揃っていた。
「言っても今日一日で全部やるわけじゃないけどね」
体育館の端にいくつも並べられたパイプ椅子に座りながら、キョウコが隣のユカリに向けて言った。
「いくつかのシーンだけだよ。ここ、空調あるって言っても、暑さ終わってるしね」
ユカリは体育館を見回しながら、「そうですねえ」と気だるげにこぼした。
「ちょっと洒落にならない暑さかも……」
「去年までだったら、何回か夏の間にもここで稽古してたんだって――今年は暑すぎて、大勢で歌って踊るシーンの合わせだけだってさ」
「キョウコさんもやるんですよね?」
「まぁね」
キョウコが得意げに返す。ユカリは感嘆のため息をついた。
「何か、どう言っていいか分かりませんけど――すごいです」
「いやいや、わたしめっちゃ後ろの方の端役だから。知ってるでしょ?」
「市民Fと市民I役ですもんね」
「たまたま流れで『あゞ、我らが愛しきY市よ』を歌う場面に出番があっただけだからさ」
「でも楽しそうじゃないですか。何だか学生時代を思い出します」
「何かやってたの?」
「まさか! ただ、当時の友達が学園祭の出し物とかコンクールとかで人前に出てたのを思い出しただけです」
「次の公演じゃ、ユカさんも歌って踊るかもよ?」
そうキョウコが冗談めかすと、ユカリは目を見開いて何度も首を振った。
「無理無理! 私は出ないですよ!」
「いやいや」と、キョウコがけらけら笑った。
「言ったじゃん、この劇団、だいたいの人が舞台に上がるってさ」
それから妙にねちっこい口調で「覚悟しときなぁ」と付け加える。それを聞いたユカリが、眉をしかめて絶妙な困り顔を返すので、キョウコは思わず吹き出してしまう。
げらげらと笑い続けるキョウコ。やがてひとしきりの発作が収まった後、伝え忘れていた事を思い出す。
「――そうそう、ニシヤさんから伝言でさ。この紙なんだけど」
キョウコは言いながらペラ紙をユカリに手渡す。それはシーンの俯瞰図だった。そこには演者達の立ち位置や間隔、簡単な流れなんかが書いてある。彼女は体育館の中央、ちょうど主宰のワタナベやニシヤたちが打ち合わせをしている辺りを指さして言った。
「――そこに書いてある立ち位置の所にガムテ―プで印付けてきて、だって」
「バミる、って奴ですね?」
「お。おたくも分かってきたねえ」
わざとらしくおだてられたユカリ。それでも悪い気はしなかったようだ。内心得意になった彼女は、慣れないドヤ顔が隠しきれなかった。
「任せてください。今日やるシーンの流れだって、大体覚えてるんですから」
「え、すご」
「何だったらキョウコさんの出るとこくらいなら、ほとんど暗記してますよ。セリフもそんなに量多くないですし」
ユカリは得意げに言った。少し離れた位置にいたニシヤが、また例の値踏みするような目つきで彼女を眺めたが、ユカリもキョウコも気が付かなかった。キョウコが再び感心した。
「すごいね。わたしなんか自分のとこと、隣の市民役のコンドウさんの部分しか覚えてないのに」
「え、逆に凄くないです? それ」
「いいのいいの。ざっくりは覚えてるから」
ユカリはテキトーだなあと思いつつ、パイプ椅子から立ち上がって仕事に向かった。
そう、キョウコはテキトーだった。もちろん人並みに悩み事はある。しかしそれについて一通り考え、彼女なりの対策や計画が頭の中に思い浮かぶと、それ以上思考することをぱたりとやめる。
この点も、いつまでも延々悩み続けるきらいのあるユカリとは正反対だった。そんなキョウコの事を、ユカリは時折羨ましがった。どうせ長く悩んだとしても、不安や不満といったネガティブな思考に支配されて身動きが取れなくなるだけ。だったら初めから必要以上に悩み事に煩わされる必要はない。それなら――
そんな事を考えながらユカリは膝をついて体育館の床にガムテープを「バミ」る。役者の立ち位置の目印の為に。メジャーを片手にテープをちぎり、俯瞰図と照らし合わせながら彼女は思考の内側に意識を向けた。
この作業はひいてはキョウコの為でもある。当然だ。彼女もこの舞台に立つ。それは他の人も同じだ。このシーンで歌うのは総勢8名。その内のひとりにキョウコがいる。ただそれだけだ。けど――
ユカリの頭の中で思考の連鎖と跳躍が繰り返される。前後関係に意味はない。もっというと、全体として意味など無いとさえ言える。だが連想は止まらなかった。自分もそうなれれば。ああなれれば。そんな事ばかり浮かんでくる。
――その連想は最後のテープを張り終えると同時に、ユカリ本人も全く意図していなかった、ある一点に着地した。
「――コノミちゃんに旦那さんの事、いつ伝えるんだろう」
キョウコの旦那は十数年前に既に死んでいた。福岡に出張しているという話は娘に対してでっちあげた架空のエピソードであり、父親は当の昔にこの世にいない。
彼女は長い事、母子家庭だった。出張の多い父親――その架空の人物設定は今のところ、娘のコノミに一定の効力を発揮している。しかし――
「――時間の問題、だよなあ」
立ち上がったユカリはキョウコの姿を探した。同時に複数人の、威勢の良い声で口上が読み上げられるのが聞こえた。声のする方向を見ると、その集団の中にキョウコもいた。ボイストレーナーのハタノ ススムと一緒に『外郎売』を発声する集団――その一番左端に陣取って、彼女に似合わない随分と真面目そうな表情で声を張り上げていた。ユカリはパイプ椅子に座って、その光景をじっと見つめ続けた。
それから時が経ち10月下旬、いよいよ公演の時は来た。今回の脚本はかなり挑戦的な内容だ。
ここY市で謎の連続テロが起こる。Y警察の刑事課で密かに暗躍する組織、『未定』のエージェントたちは、果たしてこの悲劇の連鎖を止めることが出来るのか?
これがシナリオの大枠だ。
……ユカリは相変わらず今回の舞台、『Y市の一番長い一日』の脚本の魅力が分からなかった。家族に意見を求めた事もあったが、その時の「面白そう」という娘の意見は、彼女の内なる狼狽をさらに強める結果となるだけだった。
――間もなく幕が上がろうとしていた。昼過ぎになり、控え室は次第に慌ただしさを帯びていく。開演は13時半。今回はそう大きくないホールでの公演ということもあり、皆どこか余裕のある表情をしていた。
ユカリは先日のゲネプロ(「本番と同じ条件で通しで稽古することよ」、とサエグサが以前教えてくれた)の時から若干、浮足立っていた。自分が舞台に立つことは無いと分かってはいても、やはり緊張はするものだ。
とりわけ気になったのは、ユカリが手掛けた小道具・大道具が不備無くその役割を全うしてくれるかどうか、という点だった。途中で壊れたりしないだろうか――考えたくもなかった。そんなユカリを見かねたサエグサは、彼女にこう言い聞かせた。
「大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても」
「何と言っても、皆で作り上げたんですから! それにいくつかは、あなたがいなければあそこまでバッチリ合った物を用意出来なかったんですよ? 自分の仕事と、直感をもっと信じてあげてください」
それはまるで拵えた台詞のようだった。本番が近づくにつれ、劇団内の人間がこのような“空気に呑まれた”発言をするようになっていった事に、ユカリはすぐに気がついた。
一番ひどいのは案の定、タカハタだった。
「――まったく! まったくもって、素晴らしいですな!」
彼は本番前日、整いつつある舞台を、無人の観客席から眺めながら感無量の様子でこう言った。
「私はつい先日、S街の大劇場で『ファウスト』を観覧してきたばかりですが――いやいや、小規模とは言え、我らが劇団『ファイト!』の舞台も――この際だから、はっきりと申し上げますがね!――この度の舞台はきっと、あれに負けず劣らずの――いやいや! やはりそう言ったからには“はっきり”とお伝えせねばね!――あれに“勝る”事になるであろうと、“はっきり”ここに宣言しますぞ! まさに――」
ここから先の内容は誰の耳にも入ることがなかった。彼の入れ込み具合は一入だった。一体何がここまで彼を魅了するのか、誰にも分からなかった。彼は感動のあまり顔を小刻みに震わせた。長い顎髭が宙を舞い、涙すらこぼした。誰も近寄らなかったのは言うまでもない。
「そういやサエグサさんに頼まれてた、例のあのカギだけどさ」と、控室でキョウコがユカリに尋ねた。
「どこで見つけたの? よくあんなピッタリのあったね」
「KG商店街でたまたま見かけたんです」
「へえ、売ってたんだ?」
「200円でした」
「お手頃だね」
「結構探したんですよ? ちょっと大ぶりなカギって注文だったんですけど――アクセサリーで作られた物はどれも大きくないし、あまりにも装飾でゴテゴテしてると、NG食らうし――」
「ジッサイこれの前に持ってったやつ、ワタナベさんに"何か違う”って言われてたよね」
「そしたら、商店街の古物屋さんの奥の方で偶然見つけたんですよ」
「あれ、元々はホントのカギだったのかな?」
「どうでしょう……アクセサリーっぽい見た目では無いですし、多分そうだと思いますけど……」
「っていうかあのカギ、基本ワタナベさんが持ったまま?」
「さあ……さっきニシヤさんが持ってましたけど」
「使うのはニシヤさんだもんね。でも保管してるのは、どうもワタナベさんみたいだね。何でだろ?」
「さあ」
「最初ユカさんが渡してみせた時、何だかすごく複雑そうな顔で“これだ!”とか喜んでたけど……ひょっとして気に入っちゃった?」
「さあ……ぶっちゃけ興味もないですし……」
「まあそう言われちゃったらおしまいだけど……」
しばらくはこのような他愛もない雑談で時間を潰していた。他の役者たちもそれぞれ同じような調子だった。すると突然、控え室の扉が大きな音を立てて開き、慌てた様子のサエグサが入ってきた。
「大変です! コンドウさんが来れないらしいです!」
鬼気迫る表情。ただならぬ宣告。控え室に衝撃が走った。その場にいた全員が雑談をぴたりと止め、驚愕の視線をサエグサに寄せる。
動揺と混乱が部屋中に広がる。皆、無言だった。
一体今、何が起こっているというのか? これからどうなるのか? きっと誰かが今にそれを説明してくれるに違いない。皆がそう期待した。それに応えるように、主宰のワタナベが目を見開いて言った。
「なんだって!? どうして!?」
「コンドウさん、開演が来週だと思いこんで、今日から旅行の予定を入れちゃったんですって!」
「昨日のリハーサルにはいたのに!?」
「完全に記憶から抜けちゃったそうです!」
「コンドウさん、今どこ!?」
「熱海です!」
サエグサのその発言にワタナベはあんぐりと口を開け、右手で目を覆って天を仰いだ。
「……そんなバカな。というか何で誰も気が付かなかったんだ……」
それにはこの場の一同が全く同意見だった。各々が今日半日の記憶を探ってみる。
……確かにコンドウがいない。もう一度、やってみる――明らかにコンドウがいない。
記憶の中の映像の、誰のどの場面にもコンドウじいさんの姿がない。
それはワタナベも同じだった。そして誰もその事を口にしなかったのだ。何故そうなったのか。
……いや、原因の追究は二の次だった。
問題はコンドウの役をどうするか。何せ彼の役は多岐に渡る。セリフ量は多くない端役だが、いなければいないで話の進行上、大いに問題がある。
皆が落胆の沈黙に沈む中、キョウコがさらっと小さくひとりごちた。
「――コンドウさんは『市民E、H、L、P,』の役でしたっけ……」
それは完全に沈黙しきった部屋の中で、不自然に大きく聞こえ、それゆえに誰も聞き逃さなかった。
だから、「イニシャル取ると、HELPだね」という、あまりに余計すぎる追加の一言まで皆の耳に届いてしまい、控え室はより一層深い沈黙に閉ざされる事となった。
しかし一人だけ、キョウコの言葉にあるひらめきを見出した人物がいた。主宰のワタナベーー彼の双眸には、目覚ましいインスピレーションの光が灯っていた。
開演まであと一時間。
参考資料
・Starship「We built this city」,1985
・ASIAN KUNG-FU GENERATION「マーチングバンド」,2011




