同市K町在住 ユカリの場合⑤
長い沈黙を破ったのはワタナベだった。
「ヤスダさん……今、何と?」
何かを探るような声。その場にいる全員に衝撃が走る。
風向きが変わる――皆がそう感じた。並々ならぬ事が起きようとしている。不思議なことにこの場の誰もが同じ思いを共有し、同じ結論にたどり着いていた。
一方でキョウコは、その事に気がついていなかった。目を見開きながら自分の顔を覗き込むワタナベを見て、「何だ急に、この人は」程度の感想しか抱いていなかった。
「ええと……わたし、ですか?」
目を点にしたまま自分を指差すキョウコ。隣に立つユカリは、彼女が状況を良く分かっていない事に気がついた――とはいえユカリも他の団員と同じく、この張り詰めた空気が何を意味するのか把握しかね、助け舟を出せないでいた。
彼はそんな周囲の目も気にせず、その禿あがった頭の額に脂汗を垂らし、呼吸も荒いまま一歩ずつ踏みしめるようにキョウコに近づき、もう一度同じ事を尋ねる。
「……今、何と?」
「え、HELP――ですか?」
「……その前は?」
ワタナベは自制しながら訊ねる。見ると、ほとんど白目を剥いている。キョウコも、その隣りにいたユカリも、思わず逃げ出しそうになる。キョウコは踏みとどまり、辛うじて「コ、コンドウさんの役の話ですか?」と返す。「そう! それ!」といよいよ声を抑えきれなくなったワタナベがそう言って、周囲を見渡す。
「この中でコンドウさんの役を把握している者は!?」
誰も手を挙げなかった。控え室はつかの間、静まりかえった。ワタナベはどういう訳か満足そうに頷く。
「よし、次の段階だ――何故知っている? どこまで把握している?」
まるでドラマか映画の尋問シーンのようだった。彼もまた、今回の舞台脚本の雰囲気に呑まれていたのかもしれない。その迫力にキョウコは半歩下がりながらも「えっと――」と言葉を探す。
「――知ってるのは、わたしとコンドウさんの登場機会がセットだからですね」
弱々しい声音。普段の彼女のテキトー具合とは違った。
「――だから、あの人のセリフとか立ち位置とかもセットで覚えました。コンドウさんがこう動いたら、自分はこう動いて~とか、コンドウさんのセリフがこうだから自分がこうで~、とか」
ワタナベはたっぷり1分近く黙り込んだ。それを見た周囲の人々は、隣にいる者同士で頷きあった。今この瞬間、ワタナベの思惑とこの場にいる劇団員全員のそれが一致した。ワタナベは宣言した。
「ヤスダさん。あなたにコンドウさんの代役をやってもらいたい」
「いや、無理っすよ」
「いや、出来る」
「え、じゃあわたしの役の、市民FとI、どうするんですか? この二人もコンドウさんの役と同じ場面で出てますよ。掛け合いもあるし、一人で全部やったら独り芝居になっちゃいますよ」
ここでワタナベは首を鋭く動かし、ユカリに視線を送る。ユカリは思わず悲鳴を上げそうになる。ワタナベはしばらく何も言わず、ユカリの前で立ちすくんだ。見かねたニシヤが部屋の隅からつかつかと歩いてきて、萎縮する彼女に向かってこう言った。
「市民FとI――ヤスダさんの役はアラキさん、あなたにお願いしたいそうよ」
初めユカリは何を言われているのか分からなかった。時間をかけて少しずつ状況を把握し、ワタナベとニシヤが何を言わんとしているか、その意味がようやく理解出来た時、彼女は白目を剥いて後ろに倒れ込んだ。
一分後にユカリが目を覚ます。倒れきる前にキョウコが身体を支えたので、幸い無傷だった。起き上がってすぐ、その事を知らされる暇もなくニシヤから台本を手渡される。市民FとIの役はいずれも端役で、ふたつ合わせてもおおよそ10分程度の登場となる。Iは歌の場面があるが、そこは流石に難しいだろうから、下手の舞台袖から合図するタイミングで捌けてもらって大丈夫。合唱だから一人いなくても構わない。と、一連の流れの説明をニシヤがしだす。その他細かい指示と要求がニシヤから洪水のように押し寄せ、開演まで残り20分の段階までそれが続いた。
結局、ユカリは本来キョウコの役であった市民F、市民Iとして、舞台に立った。なぜこんな事になったのか。なぜ自分なのか。というか自分に拒否権はないのか――数多くの疑問を抱えたまま、彼女は合わせて約10分間、突然与えられた自らの役をこなした。
人生における最も突拍子の無い10分間。最も家族を驚愕させた10分間(観客席のどこかで見ていた娘と夫は、予期せぬサプライズに顔を見合わせて驚いたという)。それは人生で最も早く過ぎ去った10分間であり、最も記憶に残らなかった10分間でもあった。公演は二日間用意されていたが、二日目は流石にまずいと、熱海からとんぼ返りしたコンドウとバトンタッチした。
無事に代役を演じきりハプニングの興奮も冷めた頃合い、一日目の公演終了のタイミングで、ニシヤはいつもの冷たそうな表情をやや軟化させて「お疲れ様」とユカリをねぎらった。
「ごめんなさい。本当に突然の事になっちゃって」
ユカリの頭の中には言いたいことが数百個ほど去来したが、実際に現実のものとなったのは、「びっくりですよ!」という抗議になりきらない、微妙なニュアンスの簡素な言葉だった。
「そもそも何で私が代役だったんですか?」
「理由はふたつよ。ひとつはあなたしかいなかったから。だって、ヤスダ キョウコさんが稽古している場面、必ずあなたもいたじゃない? あなた、作業しながら時々ちらっとヤスダさんを真剣そうに見てるんだもの。それに前どこかのタイミングでヤスダさんの役のセリフとか覚えてるって言ってたじゃない?」
「え、言いました?」
「ワタナベさんとあなたの話になった時、何気なくその話をしたことがあるのよ。それを
ワタナベさんも覚えてたのね」
「はあ」
曖昧な相槌を打つゆかり。ニシヤは続けた。
「というか、私も含めて皆ジジババじゃない? 他の人のセリフとか演技とか全部覚えてられないのよ。あなたまだ若いし、もしかしたらってね」
ニシヤはそう言って笑った。ユカリは彼女が演技以外で笑顔になるのを初めて見た。
「それで、もうひとつの理由は何だったんですか?」
「カギ」
「はい?」
「あの小道具のカギよ」
「カギ?」
「そう、カギ。さっきワタナベさんが言ってたわよ。あれってあなたが選んできたんでしょ?」
「はあ」
「それが決め手だ、って。私も良く分からないけどね」
ユカリはどういう事か図りかねてその場で考えこんだ。いくら考えても、答えらしい答えは出なかった。ニシヤに真意を訪ねようとして彼女の名前を呼んだが、いつの間にか彼女は控え室から姿を消していた。
こんな、勢いだけで決めちゃって大丈夫なのだろうか。二日間の公演が終わり、キョウコは改めてそう思った。
彼女は舞台の上で演じている間、ずっとユカリを気にかけていた。彼女がトチった場合、自然な流れでセリフを受け継いだり、動きをフォローしたりしなくてはならない。そのアドリブを買って出る心構えだった。もちろん自分も代役なので、トチる恐れがある。その場合はユカリが何とかしなくてはならない。それは避けねばならなかった。
しかし予想に反してユカリは一度も大きなミスをしなかった。普段の彼女とはまるで別人だった。ハキハキと良く通る声でセリフを繋げ、まるで何十回も稽古を続けてきたように、しっかりと観客を意識した姿勢で動くユカリを見ていると、当初の不安はやがて吹き飛んだ。
次第に何だか愉快で仕方なくなった。初めからこの配役だったら良かったのに、とさえ感じた――コンドウさんには、ちょっと申し訳ないけど。
元々ユカリをこの劇団『ファイト!』に誘ったのは、彼女にもっと友人が出来れば良いと考えたからだった。余計なお世話かもしれないけど、いわゆるママ友も自分一人みたいだし、寂しいんじゃないかな――そう思ったからだ。
それが良いことだったのかどうか、それは分からない。あの公演以降もユカリはこの劇団を続けてくれている。劇団は春の公演――『笠地蔵~リザレクションズ~』に向けて既に動き出している。今度はユカリにも初めから役が与えられていた。何体か存在する笠地蔵の一人、「針之筵=串刺し=地蔵」の役だ。『笠地蔵』をアレンジした脚本で、個性豊かな傘地蔵たちがY市で暗躍する悪の巨大企業をこらしめるための冒険を繰り広げる、というものらしい。
「やっぱり今回のも、いまいちピンと来ないです」
ユカリはKG商店街のドトールコーヒーでキョウコにそう言った。12月下旬の、底冷えする寒さに包まれた午前の事だった。
「どうしてテンゴさんは、こんなハリウッド・アクションみたいな脚本ばかり書くんですかね」
「う~ん……前はもっと普通な感じのお話書いてたみたいだよ」
「それがどうして……」
「分かんないねえ」とキョウコは座ったまま大きく伸びをする。
「エトウさんから聞いたんだけど――なんかどっかの高校の演劇部の舞台を見てから変わっちゃったらしいよ」
「そうなんですか?」
「そうそう。シェークスピアの劇をなんかこう、現代風アレンジしました、みたいなヤツらしかったんだけど――それに感銘を受けてこうなったらしい。ホントかは分かんないけどねえ」
「若い学生からインスピレーション受けたのかあ。もしかしてそういうのが今風だと思っんですかね?」
「分かんないですねえ」
キョウコがホットコーヒーに口をつけながら苦笑いをする。
「それはそうと、ユカさん。すごいじゃないの。主役級の役もらっちゃって」
「……あんまり言わないでください」
ユカリは俯いてゆっくりと首を横に振った。
「なんでこうなったのか……もう、何が何やらですよ……」
「まず間違いなく、この前の代役の件キッカケだろうねえ」
「そんなあ」
キョウコは消沈するユカリを見てケタケタ笑った。
「まあまあ、良いじゃない。事実、良く出来てたよ? 声も出てたし、演技も良かったよ。おまけにユカさんが作った書き割りとか小道具とかも、凄く評判良いみたいだし」
「おまけ、ですか……本来はその手の物を作るだけのつもりだったのに……」
「何か話が変わっちゃったね。でも次の舞台用のも、引き続き作ってもらいたいってさ」
「何だか、忙しくなりそう」
「だね」
その一言を最後に、二人は店を出た。
外は乾いた空気に満ちていた。舗道に点在する枯れ葉が、冷たい風にあおられてふわりと宙を舞う。乾いた音を立ててかさかさと転がる秋の名残りたちは、しばらくきままな移動を繰り返すと、道行く人の足に当たったり、路上の自転車や看板にまとわりつきながら、やがてその多くは道の隅に引っかかって動かなくなった。
「そういやさ」
並んで歩くキョウコがふと足を止めて尋ねる。
「あのカギが売ってたのって、このリサイクル・ショップ?」
「そうですよ」
ユカリもそこで立ち止まり、店先に所狭しと並べられた雑多な品を見つめた。商品の数とレパートリーは節操がなかった。金属のラックに敷き詰められた陶器や食器。中央に積み上げられた、大小様々な形のキャビネットや本棚。その足元にある大きなプラスチックの衣装ケースにすし詰めにされた、鍋やフライパン、ザルや寸動鍋といった金物類。傘の付いたアンティークのスタンドライト、ハンガーラックにリュックサック、異国情緒あふれる正体不明のモチーフの小さな置物。古本。エトセトラエトセトラ――
「この店に入って奥の棚の隅にあったんです」とユカリは開け放たれた狭い入口を覗き込みながら言った。
「我ながらよく見つけたものです」
「ホントだよ」
キョウコはそう言ってかがみ込み、由来不明の怪物の置物を両手で持った。
「こういうのって、店が買い取りしたものが並んでるんでしょ?」
「そうみたいですよ。ほら」
ユカリが店先ののぼりを指さす。キョウコは置物を持ってしゃがんだまま、首だけをそちらに向けた。
のぼりには「お売りください! 高額買取!」と書いてあった。黄色背景に赤字の袋文字。やる気に満ち溢れた、大層エネルギッシュなデザインだった。ユカリはそれを見ながら「実際は引越し屋さんとか、解体屋さんとかの業者から仕入れたものとか、競売とかで買ったものが大半って聞きますけど」と付け加えた。キョウコは「へえ~」と、あまり興味がなさそうな事が伝わるように返事をした。
「って事はさ。あのカギも元の持ち主がいた、って事だよね」
「そうなりますね」
ユカリの言葉にキョウコが正体不明の置物に向かって「ふ~ん」という含みのある相槌を打つ。
……この話題、触れてほしいのかな? そう思ったユカリは、屈んだままのキョウコに向かって「あのカギ、もしかして欲しかったんですか?」と尋ねる。
「いや、違うんだけどさ」と、こちらも即答する。
「舞台終わった後、サエグサさんが探しても見つからなくてさ。ワタナベさんに聞いたら、あの人知らないって言うんだってさ。で、後で別の人に聞いたら最後に持ってたのはワタナベさんだったって。はっきり覚えてるから間違いないって言うんだよね」
「ふ~ん」と、今度はユカリがまるで一切興味が湧きません、という態度がちゃんと伝わるような相槌を打つ。キョウコは思わず、置物に向かってにやけてしまう。
「気に入って、持って帰っちゃったのかな?」
「かもですね」
「でも別に隠す事なくない?」
「さあ……きっと一応劇団の所有物だったから、着服みたいで後ろめたかったんじゃないですか?」
「別にそれくらい構わないのにね。宝石とかじゃあるまいし。どこのかも分からないカギくらい、さ」
キョウコはそう言い放って置物を元の位置に返し、立ち上がる。
やがて二人は再び歩き出す。今日はこれから劇団の集まりがある。その後は何人かの団員と一緒にカラオケに行く約束になっていた。ユカリも知らぬ間に、そういう手筈になっていたのだ。元来、予定が詰まっている一日というものをユカリはあまり好まない性分だったが、最近はそれも悪くないかも、と思い始めている。
夫は相変わらずだし、娘は娘で日々楽しそうにキョウコの娘であるコノミとつるんでいる。何も変わらない。公正に等しく時が流れ、変わるものと変わらないものがある。ただそれだけだった。
一方でキョウコは変わろうとしていた。今日こそ娘に父親の事を話そう。そう思っていた。
もし――と、彼女は考える。
もし、カラオケで中森明菜の『Desirew』を歌って、95点以上を取れたら――
この十八番の歌声が切れ味鋭く、満足の行く結果が出たその時は――
その時こそ、コノミに全てをちゃんと話そう。そして謝ろう。今まで隠していたことを。言い出せなかったことを。
彼女はかれこれ通算20回目になる、そんな覚悟を抱きながら、商店街の出口へと向かっていった。
参考資料
・Starship「We built this city」,1985
・ASIAN KUNG-FU GENERATION「マーチングバンド」,2011




