同市K町在住 ユカリの場合②
それから数ヶ月が過ぎた。
ユカリとキョウコの娘たちは、それぞれ無事に第一志望の高校に合格していた。
二人はまるで示し合わせたかのように――事実、そうなのだろう――同じ高校を第一志望校に選択し、それぞれの家庭でその決断を家族に伝えた。そして見事、両名は合格を勝ち取った。
すこし遡った3月の冬休みには、ディズニーランドへ家族で遊びに出かけた。
二人の合格祝いだった。娘たちは、これまた示し合わせたかのように揃って「行きたい」と各家庭で宣言し、気がついた時にはもう、ふたつの家族は一緒にディズニーランドへ行く運びになっていた。
計画当日は怒涛の勢いで一日が過ぎていった。少なくとも親たちにとってはそうだった。
レイナとコノミがそれぞれ全く別のアトラクション、異なったエリアに行きたがったのだ。
彼女たちの希望は細大逃さず叶えられるべきだ――何と言っても、この日の主役たちは娘たちなのだから。そんな思いがふたつの家族で共有されており、彼女たちは長い時間をかけて園内を練り歩き、そのほとんど全域を一日かけて回ることとなった。
おかげでユカリも、彼女の夫であるトシオも、キョウコも(キョウコの夫は単身赴任で福岡に行っていて参加できなかった)、ぜえぜえ言いながら園内をぐるりと一周し、ようやく帰ってきた頃には、疲労困憊でつまさき一つ動かす事も出来なくなっていた。
ユカリ自身はというと、この3月以降、娘と同じようにちょっとした新しい生活が始まり、それに慣れるのに一苦労する事になった。
彼女はキョウコに勧められた劇団に入ってみることにしたのだ。
まず彼女の前に立ちふさがったのは、「30名近くいる劇団員の名前を覚え、かつそれぞれの顔と一致させる」という難題だった。
元々人の顔を覚えるのが苦手だったユカリは、この由々しき事態に冷静に対処した。
冷静に一人ずつ、確実に認識を深めていった。
一度に複数やろうとしてはダメだ。重要なのは混同しない事。そして何より、焦らないこと。
彼女は自分の弱点を把握していた。自らの人生でしでかした失敗、そこから得た教訓――ユカリはそれらを総動員して事を運んだ。
そして時が経ち、6月。驚くべき事にこの時点でユカリは、彼らの半数も顔と名前が覚えられないままだった。
……それはそれとして、彼女はそれなりにこの劇団「ファイト!」に馴染みつつあった。
劇団『ファイト!』は、ここY市で活動するアマチュアの劇団だ。
いわゆる“エンジョイ勢”――役者としての大成を夢見る人間にとっての足がかりになるような刺激的な劇団ではなく、あくまで趣味として演劇に興じる人間たちの集まり。
特徴的なのは、その劇団員のほぼ全員がシニア層で構成されている点だ。
平均年齢は68歳――最高齢のマエジマは今年で88歳だったし、キョウコとユカリが入る前の最年少者であるテジマですら62歳だった。
高齢者の生きがいとなる劇団――そういう理念の元に設立された劇団だった。
ユカリは所属する直前になって、以上の事をキョウコから知らされた。それはY市のKG駅前、KG商店街の中にあるドトールコーヒーでの事だった。
「地域のシニア層に活気を! っていう触れ込みで始めたらしいよ」
キョウコが狭い店内も憚らず高らかに言った。
「わたしもその辺は良く分からないんだけどね。でも別に、入るのに年齢制限がある訳じゃないんだって。実際、もうやめちゃったらしいけど、前はわたしたちくらいの歳の人もいたんだって」
「そうなんですね」
ユカリは感嘆しながらストローでコーヒーを飲む。
「キョウコさんはどうして入ったの?」
「偶然。同じ美容室通ってたサエグサさんっていう人がいてさ、たまたま仲良くなって誘ってくれたの」
「へえ~」とユカリが長い相槌打つ。キョウコは話を続けた。
「『ファイト!』って平成元年とかに出来たらしいんだけど――だからもう30年以上前だね。その当時はともかく、やっぱり年齢的に病気とか怪我とかもあって、最近はなかなか人が集まらないんだって。
それにやっぱり、そもそもがシニアの集まりっていうイメージが強くて――スーパーの掲示板とかでポスター貼って募集しても"身内感”が強そうって思われて敬遠されるみたい」
確かに、とユカリもその点は全面的に同意した。
仮に趣味で劇団に入りたい人がいたとしても、そのイメージが頭からぬぐい切れずに敬遠されてしまうかもしれない。そして、いくらこのY市のシニア層が厚いとはいえ、定年を超え、衰えを嫌と言うほど自覚している人物が趣味を探すにあたって、劇団といういかにも体力が必要そうな界隈に率先して身を投じようと考える人が、いったいどれくらいいるというのか。
きっとここの劇団員は自分とは違って、「タフ」な身体と精神を持つ頑強な老人たちの集まりなのだろう――そう考えて初めから諦めてしまうかもしれない。
そういう事情もあって、入団は驚くほどスムーズに済んだ。
面談も順調。手続きも順調。あまりに順調すぎて、ユカリの心構えだけがやや置き去り気味になる程だった。
夫へ許可を取る際も、応援の言葉すら飛んでくる始末だった(最もその顛末は、またしてもユカリの気分を暗澹とさせた事になったが)。
まるで初めからこうなると決まっていたようだった。新たな次元へのささやかなる挑戦。未知なる領分への跳躍。こうしてユカリは劇団『ファイト!』の一員となった。
この劇団『ファイト!』には様々な人種が集まっている。その面々は多種多様だった。老後の退屈な時間を持て余した者。創造性に目覚めたクリエイター気質な者。若き日の楽しかった日々の続きを期待する者。その反対にかつて夢を諦め、寸断され置き去りにされた在りし日の想いを取り戻そうとする者――
そんな劇団員たちは当初、ユカリに物珍しげな視線を送り続けた。
例えば、今年71歳になるニシヤの場合。彼女は高校から大学時代、果ては20代の大半を演劇に捧げた人物だった。しかしその夢も長くは続かなかった――彼女と志を同じくした、他の多くの仲間たちと同じように。
彼女は役者の道を諦めた。計画の頓挫――今になって振り返ってみると、その後に起こった全ての事が、ニシヤにとっては一瞬の出来事のように思えた。
役者を諦めた事と地元のガス屋への就職。出会いと結婚。子育て。夫の定年――それなりに充実した日々だった。
そうやって人生の起伏の大半をすでに終えた彼女が、3年前にこの劇団の存在を知ったのは単なる偶然だった。何気なく目に入った、ペラ紙一枚の地方新聞。そこに掲載された、劇団『ファイト!』の記事。気がついた時にはもう、劇団の門を叩いていた。以来劇団は、彼女の第二の居場所となっていた。
そんな彼女ははじめ、遠くから用心深くユカリを観察し続けた。特に初対面の際は顕著だった。
それはユカリが、劇団の皆と初めて顔を合わせた時から始まっていた。いつもの活動日程に合わせて借りた公民館の一室。全員は集まらなかったにしろ、ユカリは数十人の前で自己紹介をした。
彼女はこの瞬間を想定して、何度も頭の中で繰り返し挨拶の練習をしてきた。にも関わらず、いざ実演となると上手く舌が回らない。
時たま途切れがちになったり、所々、文章の初めの単語が上ずった声になったり――辛うじて伝わったであろう箇所は自らの名前と、好きな色くらいだった。
そんな中ニシヤは徹頭徹尾、皆の前でおずおずと声を発する彼女を、持ち前の細い瞳でじっと見つめ続けていた。時々ユカリが目線を彼女と合わせると、何か必要以上に値踏みされている感じがして、気が気でなくなった。その動揺はユカリの喉元を引っ掴み、タダでさえ震えがちな声はますます不安定になる。
「なんかヘビっぽかったよね」
キョウコはそれからずっと後になって、当時のことをユカリに述懐する。稽古のためにレンタルした市営の会議室前、7月のジメついた廊下での事だった。
「ニシヤさん、ほっそりしてるし普段物静かだしで余計そう見えてさ。でもあの人演じてる時は、まるで別人みたいに活発なんだよね。さすが演劇畑出身」
「――まさに!」
いつの間にか彼女たちの話を聞いていたタカハタが、長い顎髭をやたらめったらに触りながらそう叫んだ。彼はつい先日75歳を迎えたばかりだったが、そのお祝いで息子夫婦が予約したレストランの株主優待券の期限が切れていた事について、半日中文句を言っていた所だった。
「――まさに、これぞ役者魂を感じさせる一幕でしょう! 錆びついた日常から復活を遂げた劇への執着! 復活を告げる鋭い意志! 不死なるヘビの如き象徴的な逸話! 一度は夢を諦めた者だけが密かに養え得る、秘めた熱意の現れと言えましょう!」
タカハタはうるさかった。いつもこんなだ。
それから彼は続けざまに、ニシヤを褒め称える言葉を並べ始める。また始まったよ、とキョウコはニヤニヤしながらユカリを見た。それから彼にバレないタイミングで顎をくいくやって、熱弁するタカハタを指して茶化した。ユカリは彼女に困り顔を向けるしかなかった。
そんな訳でこのタカハタの熱い想いに関しては、彼女たちの耳を右から左へとそのまま通り抜けていくばかりで、肝心の部分は誰の頭にも入らず、長く無機質な廊下の白い壁にそのほとんどが吸収される事になった。やがて言いたいことをすべて言い終えたタカハタは満足したのか、軽いお辞儀を見せたかと思うと、静かに会議室の中へと消えていった。
「あい変わらず入れ込んでんね~、タカハタさん」と、キョウコは関心するように言った。
「演劇好きすぎでしょあの人。っていうか、もうニシヤさんの事好きなのかね?」
「違うんじゃないかなあ」と、ユカリは苦笑いで応えた。
「この間はテンゴさんの書いた脚本、おんなじ感じで褒めてましたよ」
「セクハラ天狗を?」
「セクハラ天狗を」
テンゴは主に脚本を書いている。現役だった頃は東京でバンド関係の音楽雑誌のライターだった。そのせいもあってか彼の脚本はエモーショナルで、人の心に真っすぐに突き刺さるような展開が人気を博している。
テンゴは定年を機にここY市に移り住み、今年で82歳になる。奥さんは7年前に肺炎で亡くなっている。単なる風邪と早合点して、医者に診せるのが遅れたのが原因だった。彼は長年連れ添った伴侶の死を嘆き、悲しんだ。そして周囲の人間がふと気が付いた時には、66歳の工務店経営者と再婚していた。
彼はもう10年以上この劇団に在籍している古株だ。テンゴの持つ、少々困ったクセが表れるようになったのは、キョウコがこの劇団に入ってからだった。
彼女が劇団に入ってしばらくすると、テンゴは彼女に接近を図るようになった。初めのうちは軽い内容だった。打ち合わせの時に、隣り合って肩を並べる距離で会話をしたがる、といった、まだ疑惑が疑惑の範疇を超えないで済む範囲。やがてそれは段々、大胆になった。彼女の肩を叩いたり、腕を軽く掴んだりといったスキンシップの類に発展するのに、そう時間はかからなかった。それは今でも続いている。
初めのうち、キョウコはたじろぎ、どうすべきか対処に困っていた。
が、次第にそれがまんざらでもなくなっていった。49にもなって突然、女性としての自覚を再認識させられる生活――存外それも悪くない、そう思っている自分に気が付いたのだ。
以来、単なるじゃれ合いの範疇を超えないよう彼女は「細心の注意」を払いながらこの体の良い“芝居めいた”関係を続けている。その実、いつでも警告と救援の声を上げられる姿勢を維持しながら。
ユカリもこの話はキョウコから聞いていた。まるで他人事のように面白おかしく話すキョウコに、ユカリは当初、違和感を覚えたが、いつの間にかユカリもその雰囲気に吞み込まれてしまった。それでついたあだ名が上記のもの。その俗っぽい呼称は効果的にテンゴの個性をおちょくりの対象に昇華させた。
ある種の考え方において、キョウコが何か「打ち込めるもの」に傾倒するのは、必然の流れだったのだろう、と。元来彼女はひとつどころに留まる事の出来る性分ではない。それが結婚生活というひとつのくびきによって、抑え込まれているに過ぎない。
――家族とこのY市という、退屈極まりないちっぽけな世界に。
どこかで限界は訪れる。もちろんそれはややもすれば危うい話でもあったが、幸いなことにキョウコは、その点に関して妙に常識的な分別の持ち主だった。そうして地に足がついた解決策を熟知していた彼女は、不貞ではなく、しかるべき集団への帰属を選んだ。そしてそれが偶然、この劇団『ファイト!』であったというだけの話なのだ。ゆえにテンゴの所業は、あらゆる意味において、お互いの単なるガス抜きであり、それ以上の意味を持つことはない。
参考資料
・Starship「We built this city」,1985
・ASIAN KUNG-FU GENERATION「マーチングバンド」,2011




