同市K町在住 ユカリの場合①
きっかけはごく些細な瞬間に生まれた。
それは心身共にこわばる寒さの、凍える2月の事だった。
その日は日暮れ時から雨だった。まばらに降りだした小雨は、やがて時と共に重く冷たい雨粒へと変わり、町行く人々にため息と苛立ちをもたらす。それからほんの数分後にはもう、バケツをひっくり返したように町はずぶ濡れになる。
夜の闇の中、濡れたアスファルトが街頭や車のヘッドライトに照らされ、意地の悪い笑みのように鈍く黒光りする。
仕上げとばかりに湿った北風が路上を駆け巡る。往来をうごめく無数の傘がその度に風を受けて縮こまる。
【雨ひどいし、寒そうだし、迎えに行こうか?】
ユカリは午後7時の時点で娘にそうLINEを打った。30分後に返事がやってくる。ぜひそうして欲しい。ユカリの予想通りの内容だった。
【いつものコンビニで待ってるね】と、ユカリはLINEを返した。
「レイナの事、迎えに行ってくるね」
数分後、居間のテレビで『ネプリーグ』を見ていたユカリは、夫にそう告げた。同じくテレビを見ていた彼は、その言葉に「んおぅ」という、肯定だか否定だか判断がつかない相槌を返す。
長年の共同生活でその意図をすっかり把握していたユカリは、それ以上は何も言わず、静かに身支度を整え始める。
彼女がハンガーラックから薄い青色のダウンコートを取り出していざ出陣、という頃合いになって、夫が「外、寒そうだしやっぱりオレが行こうか?」と投げかける。
ユカリは立ったまま少し考えたふりをした。それから控えめな笑顔を見せ、「大丈夫。行ってくるね」とだけ言った。彼女は居間を出る間際に何気なくテレビを覗き見た。画面の向こうでは原田泰造が力強くイキっていた。
靴を履いて傘を手に持ち、玄関扉を開ける直前、夫の「気をつけろよ~」という定型文が音として伝わり、わずかに彼女の耳をふるわせた。エレベーターを降りて駐車場に向かい、車にエンジンを掛けると、小さいため息が、まだ暖房がきき始めていない冷たい車内に響いた。
“やっぱり”。
――やっぱり、か!
車を運転している最中、アラキ ユカリは無意識のうちに頭の中でそう呟く。眼前でひっきり無しに仕事をこなすワイパーの残像が、彼女の気分が落ち込むのを助長した。
長く結婚生活を続けていると、様々な引っ掛かりが心の中に生まれる。その形や大きさは様々で、良い面もあれば悪い面もある。
今回のそれはひどく些末なものだった。
当然そうくるだろう。いつものことだ。そう理解していたゆかりは、尚の事うんざりする。そもそもの話、そのひっかかりについて考えること自体が不愉快なのだ。
――そんな事を考えていると、信号が青に変わった。前方のワンボックスのブレーキランプが消える。ユカリはゆっくりとアクセルペダルに力を加え、それに続く。
彼女はしばらく運転を続け、娘の通う塾にほど近いコンビニに車を止める。
「やっぱり、かぁ」
ユカリは車の窓越しにファミリーマートの看板の明かりを見ながら、さっきの言葉を頭の中で繰り返した。が、それは上手くいかなかったようで、意図せず言葉にしていた。
吐き出すような言い草。連なってやまない思考の連続性を断ち切る為の儀式。
やっぱり。
――なんでこっちの支度が終わった後に言うかなあ、と彼女は思う。
夫はいつもそうだった。今まで何度もそうするのを見てきたし、聞いてきた。もっと早く言えばいいのに。
――ため息は止まらなかった。
彼女の夫であるトシオは自己主張が弱い男だった。意見を言う時は探り探りだし、行動を起こす時も、それが即座に実際のものとして現れることもない。ただの一度も。
そのくせ世間一般の倫理観に則った事は即座に実行する。人への気遣いや気の利いた提案なんかがそれだ。
あれをしてくれてありがとう。それについて悪いね。これはこうするつもりだけどどう思う?
――ユカリが何かをする度、家族で何かを決める度、彼の口からはまるで義務感に駆られたようにそれらが発せられた。
そしてそれらは、既に何もかもが終わった後にやってくる。
その慎重さと、あまりに規範的過ぎるやりとりは、家庭内に幾ばくかの平和と、見過ごしがたい退屈さをもたらした。
事実娘も、その没個性的な態度に飽き飽きしている素振りを見せることがあった。
その事が余計にユカリを焦らすのだ。漠然とした不満が絶えず周囲をたゆたう――他の多くの"気がかり”と同じように。
……こうしてゆかりの『些末な気づきリスト』の中にまた一つ、かけがえのない些末な事柄がひとつ加わることになった。
だがそれは取り立てて特別な事ではなかった。なぜなら彼女と同じく44年間生き続けた人物であれば、そのリストの内容に細かい差異はあれど、だいたい似たりよったりなのだから。
ユカリは車のキーをポケットにしまい、傘を差しコンビニを目指す。不意に切らしてしまっていた牛乳を買うためだった。
店内に入り、彼女は目当てのコーナーに向かった。"コンビニ価格”で並べられた牛乳の姿に一瞬たじろぐ。意を決して彼女はその骨ばった腕を伸ばし、それを買い物かごに入れ、スマホで時間を確認した。
塾の授業が終わるのは8時。まだ15分ほど時間があった。
ユカリはこの持て余した時間が割と気に入っていた。
娘の帰りが、突然の天候不良や補習で遅くなる時なんかには、こうやって迎えの車を出すことがちょこちょこある。
その度にユカリはわざとこのコンビニに早めに到着する。そうして必然的に生まれる待ち時間を、自分だけの時間として消費する。閉め切った空間の中で進行する、ささやかな再生の手段――だがこの日は少し違った。買った牛乳をエコバッグに入れ、コンビニの出入り口でキョウコに出くわしたのだ。
キョウコは突然の出会いに驚きながらも笑みを浮かべ、「あら! ユカさんじゃん」と、声をあげる。
ユカリの方も驚き、やや嬉しそうな声音で「偶然ですね」と返す。
ヤスダ キョウコはこのY市で付き合いのある数少ないユカリの友人だった。
元々人づきあいがそれほど得意でなかった彼女は、結婚を機にこのY市にやってきたという事もあって、当時は今以上に孤独な日々を過ごしていた。
初めて訪れる見知らぬ町の中でおっかなびっくり生活を続けていた彼女にとって、キョウコとの出会いは喜ばしい救いとなった。
キョウコはユカリと違い大雑把で社交的だった。その上、彼女は年齢の割に若々しさを保っている。
彼女の肩まで垂れたセミロングの黒髪は、実際の年齢より艷やかだったし、目元も若々しい。そのおおらかな人柄と明朗な雰囲気は、男女問わず人を惹きつけた。それゆえに、彼女の周りには大抵誰かしらの友人がいる。
一方、ユカリはキョウコとは違っていた。
ひとえに地味な人物だった。自ら進んで話しかける事も少なければ、誰かに率先して意見を言う事もない。その印象の薄さがむしろ印象深い、というタイプ。
そんな二人が出会ったのは娘の小学校の入学式だった。お互いの子どもが同い年だったのだ。どのようなきっかけだったかは、もはや二人共覚えてすらいない。が、話してみると妙に波長が合った。以来二人は、何かと行動をともにすることが多い。ユカリにとってキョウコは、このY市での生活を彩る華やかな色彩の一部とすら言えた。
「キョウコさんもお迎えですか?」とユカリはたずねた。キョウコは「そうなのよ~」とわざとらしく眉をひそめてみせる。
「あの子さぁ、傘持ってくの忘れたみたいでさぁ。今日は雨降るから忘れるな、ってちゃんと言ったんだけど――いやあ、案の定だよねえ」
キョウコの娘は忘れ物をする事が多い。教材に給食袋、提出物、授業参観の案内プリントに入部届け――あらゆるものを忘れ続ける。上履きのまま下校してきて、靴を学校に忘れた事すらある。
その度にユカリの娘であるレイナが彼女を叱責した。二人は小学生の頃からしょっちゅうつるんでいる。今通っている塾が同じなのも、二人が示し合わせて決めたことだ。
レイナはこれまたずぼらなキョウコの娘――コノミという――と正反対のしっかり者だった。
彼女が割と本気で忘れ物の多さについて「ちゃんとしろ」と指摘すると、いつもコノミはニヤニヤしながら「あいよ~」という気の抜けた返事をする――よく見る光景だった。
その差異は自分たち以上だ、とユカリは常々思っていた。どうしてこんなに違う人種の二人が一緒にいたがるのかは、未だに良く分かっていない。
ただ二人の親にとっては、都合が良かった。特にキョウコは、その関係性に頼っている節さえあった。そういう訳でユカリもキョウコも、それについてはまあそんなものだろう程度の認識でいる。
「コノミちゃん、また忘れ物しちゃったんですね」とユカリは苦笑いを浮かべた。
「うちの子がまた必要以上に強く言わないと良いけど……」
「いやいや、当然の報いだから」
キョウコは低い声を作ってそう言った。
「コノミはもっとガチでレイちゃんに叱られたほうがいいんだよ。そうでもしないと治るものも治らないでしょ」
ユカリはどう返そうか迷ったが、「そうかもですねえ」と一応の同意を見せた。
それからしばらくは他愛のない話が続いた。
――子どもたちの話。旦那の話、近所の店とそこで売っていた物の話、資産運用の話。
いつも通りの雑多な話の種。それらのいくつかが代わる代わるに花を咲かせ、ぼちぼちのところで萎んでいった。
「それ、何かいいね」
話題が移り変わるその間隙に、キョウコが何気なくそう言って指をさす。
ユカリはどれの事かと彼女の指先を辿っていく。自分の持っていた小さな帆布のハンドバッグにたどり着いた。
「このバッグですか?」と、ユカリが不思議そうに尋ねる。
「いつも使ってるやつですけど――」
キョウコは首を振って訂正する。
「いや、ちがくて――そのキーホルダー」
ユカリのハンドバッグのふちにはキーホルダーが付いていた。猫の顔をあしらった、フェルトのキーホルダー。
キョウコはそれに向かって、わざとらしく茶化すように言った。
「かわいいじゃないのぉ。どこで買ったの?」
「これ? これはね、作ったんですよ」
「マジ? すごく良く出来てるねえ。作ったのレイちゃん?」
「いえ、私です」
「――ホント? そんなの作れたんだねえ」
「密かな趣味です」と、ユカリは慣れないドヤ顔を作ってみせた。が、その様子がどこか上滑りしていて滑稽だったせいで、キョウコは首を傾げる。
「――そんな趣味あったんだねえ」
「実はそんな趣味がありました」
「衝撃の事実だね」
「衝撃の事実です」
「そういえば、ユカさんの趣味ってあんまり聞いた事なかったなあ」
キョウコはキーホルダーをまじまじと見つめながら言った。
「子どもの話とか愚痴とか、そんな話ばっかだったもんね」
「そういえばそうですね」
そういえば――とユカリは思った。
そういえば、自分はキョウコ自身の事もあまり詳しく知らない。
自分より5つ年上な事。生まれた時からずっとこのY市にいる事。幼少期のコノミに危うく結婚指輪を、ベランダで育てているバジルの鉢植えの中に埋められて見つからなくなる所だった事。
――そういった諸々の事は知っている。だが、好きなものや趣味について深く語り合ったことはない。
「そうだ!」と、キョウコが声を上げ、ユカリの思考はここで遮られた。
「ユカさんって、手先器用?」
「どうでしょうか……」
「いや、器用でしょ。キーホルダー作っちゃうくらいなんだから」
「……そっちで断定しちゃったら、聞いた意味なくないです?」
「順序、順序。でさ、この前わたしが入ってる劇団の話、したじゃない?」
「劇団『ファイト!』でしたっけ?」
「そうそう、半年前に誘われて始めたんだけど、これが思いの外楽しくてさあ。ユカさんもどう? 入らない?」
「……すごく突然ですね」
ユカリが渋い顔をすると、キョウコは手をひらつかせた。
「実は小道具作る人が今足りないの。ユカさんが来てくれたらすごく助かるんだけどなあ」
キョウコはおどけたような口調でそう言った。
ユカリは断るつもりだった。彼女の頭の中には早速、上手く断る為の文言が並び始める。
忙しくするのは性に合わないから。自分がいたら劇団の皆さんに迷惑かかるから。娘の高校受験があるから。家庭の事で精一杯だから――
しかし喉からやってきたのは、今考えていた事とはまるで違う言葉だった。ユカリはこう言った。
「レイナの受験が終わって春になったら、ちょっと考えてみようかな」
その言葉は、コンビニの軒先を冷たくしたたる無数の雨だれの中へと消えていった。
その先にユカリがふと視線を向けると、暗がりと雨粒の隙間から人影がこちらに向かって歩いているのが見えた。
塾が終わり、一本の傘の下で窮屈そうに並んで歩くレイナとコノミの姿だった。
――こうしてテンドウ ユカリの、45年目のちょっとした冒険は始まった。
参考資料
・Starship「We built this city」,1985
・ASIAN KUNG-FU GENERATION「マーチングバンド」,2011




