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Y市M町在住 サヌマの場合④

 警察の聴取は簡単なやり取りだけで終わった。哀れかなこのサドル泥棒は、よりにもよってまさに犯行に及ぶその瞬間を我々に目撃されてしまったのだ。

「普通こういうのって夜中にやらない?」と、警察の到着を待つ僅かな時間にナガラは述懐する。

「なんでこんな白昼堂々やったの?」

 窃盗犯の片腕をしっかり捉えながら、携帯電話で警察とのやり取りを終えたばかりの私に向かって尋ねる。私はわざとらしく俯き、悩むふりをしながら間をたっぷり稼いだ。それから頃合いを見計らって「良いアイデアがある。目の前の本人に聞けよ」と言った。私たちがサドル泥棒を窺うと、恐怖と後悔の念に歪む顔がそこにはあった。彼は何も答えなかった。


 ナガラいわく、この人物はアサクラでは無かったらしい。それについては私もうすうす気が付いていた。ナガラが窃盗犯に追いついた地点、小さな線路の高架下まで私が息を上げながら小走りで追いついた時、初めに私の目に飛び込んできたのは、両膝をついて黙秘を貫くサドル泥棒のいじらしい姿と、この謎の人物の尻ポケットに入っていた財布から勝手に免許証を取り上げるナガラの姿だった。

「カトウ キョウヘイさん?」

 免許証に記された彼の本名をナガラが読み上げた。男は額や首筋からアスファルトに滴り落ちる汗をものともせず、じっと動かず、なお黙り続ける。

「なんか全然違う人っぽいよ、この人」

「みたいだな」と私は息を整えながら膝に手をつき、男の横顔をのぞき込む。確かにアサクラの写真に似ていた。だが完全に別人だ。性別すら違うとは思わなかった。思い返してみると、アサクラの顔立ちは中性的で、髪形や化粧なんかが無ければ男と間違われても、それほど違和感はない事に気が付いた。中高年の相貌などそんなものだろう。

「なあんだ。がっかり」とナガラが肩を落としていると、すぐにパトカーがやってきて、彼は連行された。

 パトカーの姿が完全に見えなくなると、疲れがどっとやってくる。ナガラもそれは同じだったらしく、私たちはどちらが言うでもなく帰路についた。駐車場に向かう道中、我々は一言も喋らなかった。ナガラがオンボロ車に乗り込み、老人の咳き込みのような音を立ててエンジンが根を上げると、運転席の窓を開けてナガラがこう言った。

「何か新しく分かったらまた連絡するよ」

「それは」と私はすぐに言った。

「それは期待に値するものなのか?」

 私の問いかけに、ナガラは答えなかった。代わりに私の目をじっと見つめ、静かにほほ笑んだ。その時、彼の細い目の奥で何かが光ったのを私は見逃さなかった。

なるほど――私は納得し、ガタガタと小刻みに揺れながら走り去る彼の車を見送った。すぐに自分の車に乗り込んだ私は、カーラジオを付け、シートを倒してしばらく天井を眺めた。スペースシップの『シスコはロック・シティ』が流れていた。私はうんざりしながら曲に耳を傾け、目を閉じた。十秒か二十秒そうしたのち、私は携帯電話を取り出し、かつての会社の同僚に電話を掛けた。

「久しぶりだな、元気だったか?」と同僚は嬉しそうに言った。彼とは長い付き合いだった。私と年が近かった事もあり、仕事上の悩みを打ち明けあう気の置けない仲だった。早期退職した私と違って、彼は再雇用の道を選び、少なくともあと数年は会社勤めを続けるらしい。

「元気だよ。おかげさまでね」と私は懐かしい声に、つい小さく笑みを浮かべた。

「実は折り入って話があるんだ。古い友人の頼みを聞いてくれる気はあるかな?」

 私が改まってそう尋ねると、彼は二つ返事で快諾してくれた。



 その夜、私は一人であの男の経営する居酒屋に出向いた。奥まった席に陣取り、私はビールと馬刺し、串焼きを数点注文し、しばらくはそれを一心不乱に口に運び続けた。頭を空っぽにして、ビールを3杯飲んだ頃には、客足ももうまばらな時間になっていた。私は四杯目のビールを流し込んだあと、決心して店員を呼んだ。応じたのはこの間の女性だった。ナガラが口説こうとしたあの中年の女。彼女は「あら、お久しぶり」と愛想よく私に告げた。

「この間一緒に来てたお兄さんは一緒じゃないんですね」

「今日は一人なんだ」と私は極力機嫌の良さそうな声音で言った。

「申し訳ないんだけど、ビールを追加で貰えるかな」

「随分かしこまっちゃって――どうしたんですか?」

「いや、それが」と私は遠慮がちにほほ笑んだ。

「これから少し無茶なお願いをしようと思っててね。気後れしてるんだ」

「聞けるお願いなら聞きますよ」と、彼女は冗談めかした。私は少し間を置いて言った。

「裏で料理している、ある女性に会いたいんだ」

 私がそう言うと、彼女は不思議そうに私を見返す。私は続けた。

「みっちゃん、でしたっけ? 裏にいるんでしょう? 昔の知り合いが会いに来ていると伝えてくれませんか? 無理にとは言わないが――とにかく少しだけでも話がしたい」

 私の“お願い”を彼女は聞き入れてくれた。カウンターの奥、厨房の方から一人の女性がおずおずと顔を覗かせる。店内の客数人がそんな彼女の姿を見つけると、楽しそうに声をかけた。それは店内の至る場所からやってきた。

「久しぶりじゃん!」「ずっと裏にいたのか! 気づかなかったよ!」「元気?」「しばらく見なかったから辞めちゃったかと思ったよ!」

“みっちゃん”に向けて放たれる数々の待望の声。彼女は丁寧に席を回り、そのひとつひとつに応え始めた。楽しげな会話が繰り広げられ、やがて別の席へ。それからまた別の席へ。彼女は明るい表情で応対を続け、やがてそれが一通り終わると、こちらに向かってきた。

「お待たせしました。わたしにお話があると?」

 彼女が私に尋ねた。私はさっきのやり取りに少々面食らっていて、何を言ったらいいかまごついてしまう。私は呆気にとられながらも、彼女の姿をまじまじと眺めた。だが間違いなかった。目の前に立つこの女は、我々の探し求めたアサクラ本人だった。


――これがアサクラ? と私は思った。小学生の頃とはまるで別人だった。柔らかい物腰と人好きのする笑顔を振りまく現在の彼女と、私の知っている、かつて誰にも感情を打ち明けなかったむっつり顔の少女との間には、埋めがたい溝があった。およそ同一人物とは思えない。数十年の隔たりが一人の人間の性格を180度変えてしまったのだ。

……いや、考えてみれば当然のことだろう。子供の頃の性格なんて、その人物のその後の人生を推し量るに当たって、参考になどまるでならない。私は偏見を払しょくしながら、こう尋ねた。

「ようやく見つけたよ」

 私は恐る恐るつづけた。

「アサクラ アキコ」

 目の前の彼女はその名前を聞くと、突如として全身をこわばらせた。まずい事をした、と私は内心自分の早計さを恥じつつ、こう続けた。

「あなたを探している人がいるんです」

「わたしを?」

 アサクラはおずおずと口を開いた。私は「そうです」と、極力ゆっくりと言葉を発した。

「二年前行方をくらました理由は私には分かりませんし、知る必要もないでしょう。ですがご家族や――」

 私が探り探り話をしていると、彼女は「――記憶がないんです」と私を遮った。私はきょとんとして思わず「記憶がない?」と尋ね返してしまう。

「そうです」

 彼女は俯きながら話を続けた。

「わたしがかつてアサクラ アキコという名の児童文学作家だった事は何となく聞いています。けれど――」

 彼女は一旦言葉を区切った。

「けれど、その頃の記憶を持っていないんです」

「記憶喪失、ですか?」

 私が確認するように聞き返すと、アサクラは深く頷いた。

「ある日、ふと気が付くと近くのYC駅のデッキにいたんです。目が覚めるみたい意識が起き上がると、そこに一人でぽつんと立っていました」

「駅前の?」

「そうです。夜更けの事でした」

 彼女はそれ以上何も言わなかった。さっきまで客に振りまいていた笑顔とはまるで違う表情だった。怯え、震え、どうしたらいいのか、何を言ったらいいのか全く分からない、ひたすらに困惑する表情――私はしばらくの間俯いてビールを飲み続けた。次に何かが起こるのを期待していた。その期待とは裏腹に、これ以上何も起こらなかった。見知った男が従業員用の扉から出てきて、私を一瞥すると店の外へ足早に出て行った。私は黙って立ち上がり、会計を済ませて店を後にした。立ち去り際、今にも泣きだしそうなアサクラに向かって、私は「すまない」と、小さく頭を下げた。


 店を出ると、さっきの男が煙草を吸っていた。私の姿を認めると彼は煙を吐き出し、目を細めて空を仰ぎ見た。煙草を進められたので、私は彼からジッポライターを借りて火をつけた。私は尋ねた。

「お久しぶりです。二年ぶりですかね?」

 その男は私が仕事を辞める最後の顧客になった、あの男――ニノマエだった。彼は片方の口角を上げて、きざったらしく、しかし嫌味をまるで感じない笑顔を私に向ける。

「私の店、どうでしたか? お気に召していただけましたかな?」

「それはもう」と私は煙を吐き出した。

「料理はどれも美味いし、居心地もいい」

「それは良かった!」

 ニノマエが肩をすくめる。私は「ただ――」と付け加えた。

「――ただ少しばかり焼き鳥は塩加減が濃すぎですね」

 私がそう言うと、彼は笑って「でしょう?」と合意する。

「料理人の男には口を酸っぱくして言ってるんですよ。どうしてでしょうねえ、ほかの料理は良い塩梅なのに、どういう訳か焼き鳥の塩加減だけは言うことを聞いてくれない!」

「困ったものですな」

「何、酒が売れる味付けですよ。問題なしです。あなたに気に入られなかったという、ただ一点の致命的な欠陥があるだけですな!」

「……どうして彼女がここにいるんです?」

 私は足元に落ちた灰を見ながら訊いた。彼は答えなかった。私はため息をつきたいのを我慢した。

「私の最後の仕事――今思い返せば、あれは彼女のための住処だった訳だ」

「いやはや」と彼は首を振った。

「まったく、どこでそれを?」

「あのマンションの一室、すぐに名義が変更されていたよ。アサダ ミチコ。みっちゃん――恐らく今の彼女の名では?」

「良くお気づきになられましたな」

「何、友人は多いものでね」

「勘もするどい」

「まあ、何をどうやってそうしたのかまでは分からないですがね。住民票はどう用意したのかとか、なんでそんな回りくどい真似をしてまで彼女に部屋を用意したのか、とか、そもそも贈与した分の金はどうやって用意したのか、とかね」

「ご想像にお任せしますよ。どうして気が付いたんです?」

「ご想像にお任せしますよ」

 私は皮肉を込めておうむ返しで回答する。

「ただ、何となくそんな気がしたんです。あなたに瑕疵があった訳じゃない」

 私がそう告げると、彼がまた肩をすくめる。私は尋ねた。

「どうして彼女を?」

「――なに、お恥ずかしいお話ですよ」と、ニノマエは整った高い鼻を触りながら言った。

「二年前、私は何かの商談帰りに彼女を見つけました。すぐ傍のペデストリアンデッキで、ね。見れば彼女、途方に暮れているではありませんか。どうやってここまで来たのか覚えていない。自分の名前すらも分からない。まあ、記憶喪失というやつですな。免許証や保険証なんかの身元を確かめる物も何も持っていない。どんなきっかけでそうなったのかも定かじゃない。いつか戻るだろうと、初めは単なる親切心で住まいを用意しました。せめて記憶が戻るまでは――そういう取り決めでね。しかしあろうことか――」

 彼は気を紛らわすような笑い方で先を続けた。

「――あろうことか私は恋をしてしまったのですよ、彼女に、ね。それからの事は概ねあなたの予想通りです。私は彼女に居酒屋店員という職を用意し、住まいも彼女にそっくり譲り渡してしまいました!」

「何て言ったら良いかわからないが」

私は慎重に言った。

「あなたの選択は決して正しくはなかった、そう見えますが、それについてはどうお思いで?」

「……分かるでしょう?」

 ニノマエは私を正面から見つめてこう言った。

「アサクラ アツコの記憶が戻れば、“みっちゃん”としての記憶はどうなるのだろう? 分からない。きっとそのままかも? ですが――ですがもし、彼女があるべき正しい姿を手に入れた時、そこに私に関する記憶の一切が消え失せていたら――」

「あんたはお役御免。晴れてご退場となる」

 私がそう言うと、彼は力なく頷いた。私はため息を抑えられなかった。

「そんな勝手な理由で彼女を束縛していたのか?」

 私は煙草に口を付けて煙を吸い込む。

「そんなのはフェアじゃない」

「……どう見るかは様々ですよ。とはいえ、まあ概ねおっしゃる通りです」

 彼はまたあの笑いを取り出して呟いた。それを最後に私たちの間には沈黙が広がった。私が煙草を吸い終わると、彼は小さく会釈してこの場を去っていった。私がそのうしろ姿を眺めていると、背後の扉が開いて、店の中から“みっちゃん”が現れた。彼女は私を見て、気後れしながら私に一本のカギを手渡した。黒ずんた古いカギだった。通常のものより一回り大きい。

「これ、差し上げます」

「これを私に?」

「はい」と、彼女は笑った。

「これが何かは分かりません。記憶を無くした時、わたしが唯一持っていた物です」

「なぜ私に?」

 彼女は黙って首を横に振った。私はしばらくそのカギを眺め、こう言った。

「アサクラ アキコから、か」

 “みっちゃん”は小さく頷き、「多分、そうです」と告げた。

「良く分かりませんけど、とにかくこれはあなたに渡すべきだと――そうさっき思ったんです」

 それから彼女はすぐに店の中へと戻っていった。


 私が家に帰ろうと歩き始めると、“みっちゃん”と客が取り留めのない話題で歓談する声が、私の背後で花咲く。YC駅から電車に乗り、自宅のあるM駅の改札を抜けると、その先でナガラが気だるそうに立っていた。


参考資料

・Starship「We built this city」,1985

・ASIAN KUNG-FU GENERATION「マーチングバンド」,2011

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