同市I町在住 マスダの場合③
バイトの時間だった。やかましく鳴る置時計のベルを止めて、起き上がる。いつもの通り20時半。バイトまであと30分。またあの退屈な時間を過ごす時がやってきたという訳だ。
最近、身の回りで奇妙な事が起きる。あのメガネの男もそうだったし、マツモトもそうだ。
それだけじゃない。何なら今まさにそれが起きている。部屋に置いてあるものが、俺の記憶と違う。机の上には見た事の無い本が、何冊か置いてある。本屋のブックカバーが付いてる。中身が何なのかは開いてみないと分からない。
……本と言えば、本棚にしている背の低いメタルラックには、俺が買った覚えのない漫画が数点置いてある。で、ご丁寧に枕元にその漫画の4巻が置いてある。「黄泉のツガイ」という漫画だった。表紙のイラスト、どこかで見た事のある絵柄だ。何だったか? ああ、あれだ。「鋼の錬金術師」だ。懐かしいなあ。作者の名前は覚えてないけど、この漫画、多分ハガレンと同じ人が書いてるんだ。へえ。
……いやいや。そうじゃないだろ。いくら俺が人一倍忘れっぽいタチでも、最近はちょっと異常だ。数日前の弁当やら食器用洗剤やら、そういう細々して忘れやすい物ならまだ分かるけど。
……そもそも自分で買った漫画なんだ。それは流石に興味がある物だし、覚えてないなんて事はありえない。
いつもバイト前は仮眠を取って、時間ギリギリに起きる。だからこうして部屋をまじまじ観察する事もしなかった。改めて見てみると、他にも違和感はいくつもあった。洗濯機の中には着た覚えのないTシャツと靴下が入っていたし、昨日は確かにあったはずの牛乳が冷蔵庫から消えてる。ゴミ箱にはまたしても食べた記憶の無いパンの袋か何かが丸めて捨てられてる。ここまで来ると全てが疑わしい。今あけっぱになってるけど、そもそもカーテンって寝る前閉めてなかったか? あんな所にスマホ置いてたっけ? トイレットペーパーって切れかけじゃなかったか? それを見て「めんどくせえ、買ってこなきゃな」って思った記憶があるが……あれ? そういえば、この置時計っていつからあるんだっけ?
俺は急に気分が悪くなった。息が荒くなる。立ってられない。俺はベッドに横になった。しばらく大人しくしたが、一向に良くならない。仕方がないので、開きたくもないスマホを開く。体調不良で今日は休みたい――そうバイト先に連絡を入れようとした。LINEの通知が数件届いてた。複数人からだ。こんなだ。
【りょ】
【イワンってキャラ出るとこまで読んだ? めっちゃかっこいいから!】
【じゃ明日教室で待ってるわ】
【(なんかのキャラのスタンプ)】
送ってきた奴らの名前は一人も知らなかった。
……まあいいや。
俺はスマホを床に放り捨てて、無断欠勤を決め込むことにした。
……いつの間にか寝ていたらしい。置時計は4時を示してる。窓の外を見ると真っ暗だった。午前4時――深夜。俺は大量の汗が乾いた後の、不快なTシャツを脱ぎ捨てて、新しいTシャツに着替える。その上から紺のウィンドブレーカーを羽織る。下は部屋着のままでスウェット。そうして俺は公園まで出かけた。スマホは家に置いていった。
マツモトがいた。うつむきながらブランコに乗ってる。なんか暇そう。俺は近づいて声をかける。
「また来てたのか」
「お互い様です」
「確かにそうだな」
「暇だと苦労しますね」
「お互い様だな」
俺は適当に返事をしながら、空いてる隣のブランコに腰掛けた。マツモトは遠くを見ながら、「今日は自転車じゃないんですね」と言った。
「バイトは休みですか?」
「いんや。あったよ」
「歩いて行ったんですか?」
俺は首を振った。
「休んだ」
「ぶっちですか?」
「いやさ。ちょっと体調が、ね」
「……大丈夫なんですか?」
「もう大丈夫さ」
俺は元気よくブランコを漕いでみせる。マツモトはにがい顔で俺を見た。
「きっと変な物でも拾って食べたんでしょう?」
「そうかもなあ」
「否定しないんですね」
「なんせ……」
俺は迷った。言うべきか否か。
「……なんせ自分が数時間前に食べたものさえ、寝たら忘れちゃってるんだもの」
「……大丈夫?」
「いやだわあ。お母さん健忘症かも」
俺が軽い感じでいると、マツモトは黙ってしまう。気まずかった。
「……でも」と、マツモトは長い間の後言った。
「私の事は覚えてるじゃないですか」
「お、いいねえ。なんか雰囲気あるねえ。強力な能力を使う度に、ちょっとずつ大事なものを忘れちゃう英雄の物語の、最後の方に出てくるセリフみたいだ」
マツモトは「そうですね」と小さく呟いた。「あと、お母さんじゃないです」とも言った。が、また黙ってしまった。何だか調子が狂う。その日はそのまま二人とも解散になった。
次の日、例のごとく20時半に仮眠から起きると、ものすごい気まずさに全身を襲われた。
やっばいじゃん……結局、バイト先に連絡入れてないじゃん……そして今日のシフトめっちゃ気まずいじゃん……
当たり前の事に今更思い悩む。でも心配無用。大丈夫だった。スマホでLINEを見ると、俺と店長のやり取りが目に入ったからだ。俺は昨夜、寝坊でシフトに入れなかった。店長がそれをやんわり咎め、俺が再発防止に努めますという、お堅い結び言葉でやり取りを終わらせていた。つまり無断欠勤したは良いが、アフターフォローはしているのだ。
こんなやり取り、俺は一切知らなかった。もうどうでも良かった。俺はこの日もバイトを休んだ。
いつもより早い時間に公園に着いた。俺が30分ばかりぼんやりして暇を潰してると、マツモトがいつの間にか隣に座ってた。いつもの無駄なダベリが始まる。何を話したのかさえ曖昧な会話。曖昧な時間。
この日はマツモトが「話したい気分」だったらしい。またこの間のような取り留めのない「お話」を俺に話し始める。今回のは前のよりシンプルだった。友達に誘われて劇団に入った主婦の話。そのおばさんは劇団内で舞台道具の制作を手伝う裏方さんになった。劇で使う小道具とかを用意する人。おもちゃの拳銃。日傘。それからカギ。そんなのを用意する人。
が、開幕直前、アクシデントが発生。代役で表舞台に出ることになってしまう。主婦のおばさんは何とか上手くそれを乗り越え、劇は無事に閉幕――めでたしめでたし。そんな話だった。
一通り話し終えたマツモトは俺に感想を求めるでもなく、そそくさと帰ってしまった。
偶然。
偶然が全てに優先される。
偶然があらゆるものを結びつける。
偶然が本来、結びつくはずの無い何かと何かを“つなげる”。
偶然が全てに優先される。
偶然に満たされた世界。
偶然。偶然と繰り返し。繰り返し。繰り返し。繰り返し。
問1 本文の文章内で、主人公たちはある共通した何かによって動かされている。それが何か答えよ。
回答 偶然
「まるでさあ――」
俺はある日、ベンチの背もたれにふんぞり返るみたいな体勢で、空を仰ぎながら言った。
「まるで自分が自分じゃないみたいな感覚って分かるか?」
「分かりませんね」
隣に座るマツモトが即答する。つまらん。
「分っかんないかあ」
「自己管理の意識が甘いんじゃないですか?」
「しかも超手厳しいときた」
「なんでそんな事聞いたんです?」
「いやさ――」
……本当の事は言えなかった。言う必要があるとは思えなかった。少なくとも、この時点では。
「――俺もこの前、聞いた話があるんだけど、聞いてくんない?」
「話したい気分?」
「話したい気分」
「どうぞ」
「あるサラリーマンのおじさんが帰りの電車を待ってたんだ」
「もう泣きました」
「泣くな泣くな。場所は都営浅草線の五反田駅。もう日付も変わろうっていう時間。そのおじさんは地下鉄でひとり冷たい夜風に耐えながら電車を待ってる。愛する家族が待つ、西馬込のマンションへ向かう電車をな」
「マンション直通の電車なんてあるんですか?」
「茶々は入れないでな。言葉の綾だ。って、ほら。この言葉、使うじゃないの。
……んで、そのおじさんは今朝、昇進したんだ。古くからある製鉄会社で、年功序列の嫌いはあるっちゃあるから自動昇進みたいなもんだけど……それでも、とにかくめでたい事だ。おじさんはその知らせを家族に早く伝えたくてうずうずしてる」
「家族はそんな遅くまで起きてるのかなぁ?」
「それは知らん。とにかく帰りたかった。そのうちに電車がやってくる。けどそれは家とは反対方向、泉岳寺行きの電車だった」
「帰るのが待ち遠しくて、いちいち見ちゃうんですね」
「そ。でもその時、おじさんの身に不思議な事が二つ起きた」
「急展開ですね」
「一つ、おじさんはその反対へ向かう電車に、気が付いたら乗っていた」
「あら」
「二つ、そのまま泉岳寺までやってきたおじさんは、わざわざ違うホームまで歩いてって今度は京急線に乗ってしまう」
「まあ」
「おじさんに起きた現象はおじさん自身にも説明出来なかった。何考えてそんな事したんだ――おじさんは電車に揺られながら自分を責める。次の駅で降りて引き返そう。まだ終電じゃないし、間に合うはずだ、と」
「急いでおじさん」
「けど、どういう訳かおじさんは降りない」
「どうして?」
「降りたくなかったんだ。足が動かない。おじさんは降りたくない。降りたいのに、降りたくないんだ」
「大丈夫そうですか?」
「どうだろね。とにかくそうして、おじさんは電車に乗り続けた。途中の駅で降りて引き返すって選択肢があるにも関わらず、おじさんは乗り続けた」
「ちゃんと座れたんでしょうか」
「横浜駅辺りで座れたらしい」
「良かった。それならまだマシなお話ですね」
「座ったおじさんは、更に一時間その電車に乗り続けたんだ。で、何でそうなったのかはこれまた不明だけど――座ったおじさんが降りた駅はここY市のK駅だった」
「座ったおじさんが?」
「座ったおじさんが」
「とうとうこの辺りにたどり着いたんですね」
「そう。座ったおじさんはその瞬間、立ち上がったおじさんになった。んで、その立ち上がったおじさんはK駅で降りた」
「歩くおじさんになったんですね」
「それから30年。そのおじさんはこのY市で暮らし、Y市で死を迎えた」
「……居座りおじさん?」
「居座りおじさん」
俺が話し終えると、マツモトは言った。
「良いお話でした」
「……どこが?」
「幼稚園の学芸会当日がやってきて、木の役を男の子が立派にやり遂げた場面が特に印象に残りました」
「一切話、聞いてないじゃん」
「聞いてましたよ。それに男の子のお母さんに生まれて初めてのママ友が出来る場面なんかも、胸がすく思いでした」
「違うお話始まっちゃったよ」
マツモトは小さく笑いながら立ち上がる。こいつ、言うだけ言って帰るつもりだ。事実、マツモトは公園の出口に向かって歩き出す。
「楽しいお話でしたよ」と、帰り際に振り向いてマツモトが俺に言った。
「楽しすぎて、つい聞き入っちゃいました」
「それはそれは、何よりで」
「本当ですよ?」
マツモトはまた笑った。
「まるで、あなたみたいなお話でしたから」
マツモトは帰ってしまった。俺は少し考えてから、思い当たる節を探す。
……どこが? と、言いたかったが言えなかった。
そのマツモトの言葉に、俺は妙に納得してしまったから。
問2 本文の文章内で、主人公はある何かによって動かされている。それが何か答えよ。
回答 偶然
参考資料
・Starship「We built this city」,1985
・ASIAN KUNG-FU GENERATION「マーチングバンド」,2011




