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同市I町在住 マスダの場合②

 置時計がリンリン鳴る。短い仮眠から目覚めた俺は、のっそり起き上がる。時計が示すは8時半。午後の。


 バイトの時間。俺はいつもの通り水道水をコップ一杯飲み、出かけた。部屋を出る時、見覚えの無い真新しいニューバランスのスニーカーが玄関に置いてあったが、時間が押しているのもあって特に気に留める事なく玄関に鍵を掛けた。


 バイト先の途中にあるコンビニでエナドリを買う。このルーチンを省略する訳にはいかない。時間はぎりぎりになるが、大丈夫だ。

俺がコンビニの軒下でエナドリを飲んでいると、突然声をかけられた。

「お、マスダじゃん。偶然! おつかれー」

……すごく、気安い。短髪のセンター分けの丸メガネ。頬の線がしゅっとしていて、苛立たしい事に顔立ちは良い。歳は同い年くらい。Tシャツに黒のアディダスのジャージ。ラフな装い。

 俺はこいつの事を知らなかった。いや、思い出せないだけかも。人の顔なんてしょっちゅう忘れる。こういう場合、注意が必要だ。さらっと俺の人生にとっての重要人物のケースがあったりする。バイト先の店長とかオーナーとか、本社の人間とか、もしくはずっと昔にお世話になった親戚とか、俺のアパートの大家さんとか。

……いや、歳的に最後のは無いか。とは言っても、変な事言ったら変な事になる可能性がある。用心して接した方がいい。俺は軽そうに見える笑顔で言った。

「おつかれ。偶然ッスね」

「ん? あ、おう。家この辺なんだよね」

「へえ」

 まだこいつの正体をつかむ取っ掛かりが現れない。あせっちゃダメだ。俺は慎重に相手の出方を窺う。身構えた俺にメガネが言う。

「そういやあれもう提出した?」

「いや……っていうか、あれってどれ?」

「こないだ言ってたやつだよ。あの国家資格対策の授業の申し込みのやつ」

「あー」

 俺はにわかに歯切れが悪くなる。これ人違いしてないか? いや、最初に俺の名前呼んでたし、それは無いか――てか、え、国家資格って?

……いろいろ考えたが、結局なし崩し的に俺は相手に話を合わせた。

「あーあれね。まだだけど」

「いや、お前締め切り明日だろ? って言っても俺も今日出したばっかだけどさ。早く決めた方がいいよ」

「あー、分かった。サンキュ」

「歯科免許取れないと、歯科大入った意味ないじゃん? お前の言う通り、気が早すぎる気がするけどな。でも一年のうちにやれるだけやっといた方が良いわな」

「だな」

「じゃ、また学校でな――そういや、敬語ようやくやめてくれたんだな。タメなんだし、そっちの方が良いじゃん」

 その男はそう言って店内に入っていった。俺はエナドリの缶を急いでゴミ箱に捨て、その場を後にした。

……あいつ何言ってるんだ? 絶対人違いじゃん。怖いわぁ。

……医師免許とか言ってたな。歯医者? 歯科大って、Y市のあの歯科大か?

 変な事を考えていたら、バイトに遅刻してしまった。畜生。


 その後は何事もなくバイトが終わった。いつも通り俺は午前4時きっかりに退社する。俺の名札の名前は、まだ直されてなかった。何日か前に言っておいたのに。まあいいや、どうでもいい事だ。


 バイトが終わり、帰る前に俺はまたあの公園に寄った。あの屋敷の敷地には今日は入らなかった。この間と同じく、コーヒーを片手に公園のベンチでまたぼーっとする。至福の時。

 そういえば、この公園も昔見た時とは変わったな。前は確か真ん中に地球儀みたいなジャングルジムがあったし、その横にゴンドラのブランコもあったと思うけど……全部、いつの間にか撤去されている。

 俺が小さい頃に遊んでたものが無くなっていく。やぁねえ。どうして世の中、人の思い出を簡単に取っていくのかねえ。興味無いモノはすごい勢いで増えていくのに。

……まあ俺が小さいころ遊んでた公園は全然違う場所にあるけど。今度久しぶりに覗いてみるかな。ここから20分くらいで行けそうだし。

 そんな事を考えていると、こんな夜更けだというのに先客がいる事に気がついた。公園の端にあるブランコに誰かが乗っている。

 あれ? こないだもこんな感じじゃなかったか? 俺がそう思ってると、ブランコの人物は俺に顔を向け、すたすたと歩いて寄ってくる。その女の子の装いはY高校(だっけか?)の制服だった。暗いし何か怖い。俺のすぐ横までやってきたそれは、見覚えのある顔だった。その見覚えのある顔が口を開いた。

「こんばんは。三日ぶりですね」

……思い出した。名前は確か――俺は缶コーヒーを飲んでから言った。

「マツモトさん、だっけ? まぁたこんな深夜に一人でいたのか」

「一人じゃない」

 マツモトは否定する。

「マスダさん、あなたがいます」

「……そういうのってさ」と、俺は呆れた。

「言葉の綾っていうんだよ。おめでとう。一つ賢くなれたじゃないか」

「それって社会に出ても使う言葉ですか?」

「そりゃあ、しょっちゅう使うよ」

「プログラミング言語より?」

「人による」

「じゃあ意味の無い知識ですね」

「そこまで言うかね」

「賢くなって損した」

「そこまで言うかね」

「言葉の綾です」 

……この子は俺以上にテキトウかもしれない。俺がそう思ってると、マツモトが隣に座ろうとする。俺は端の方に寄って、「なあ」と声をかける。

「こないだも聞いたかもだけど――こんな時間に何してる?」

「ベンチに腰掛けてます」

「いや、違くてさ。そういうのじゃないじゃん」

「こういうのは詭弁って言います。おめでとうございます。一つ賢くなれましたね」

 やりかえされた。

……いや、そうじゃないか。多分この子はこんな時間に公園なんかにいる理由を言いたくないんだろう。複雑な家庭環境? 単なる趣味? それとも好奇心? 色々考えられる。

「……まあ言いたくないなら、こっちも訊かないや。けど繰り返しになるけど、危ないって。やめた方がいい」

「私、不登校なんです」

「……ワケ、言うじゃん」

「高校も受かったは良いけど、行ってないです」

「まあ、人それぞれだよなあ」

「そうやって子供相手に大人ぶれる機会が訪れて良かったですね」

「……よし分かった。理由を当ててやる。友達関係だろ?」

「いえ。別に」とマツモトは反論する。

「友達がいない事を苦に感じたことはありません」

「あ、やっぱいないのか」

「いないです」

「一人も?」

「……今ちょっと期待したでしょう?」

「は?」

「あなたが私の初めての友達です、って言いそうだと思ったでしょう?」

「あんた、だいぶ終わってるみたいで」

「違います。始まってもいないです。年齢的に」

「は~やだやだ。何だか凄い疲れるわぁ」

「お互い様ですね」

「……で? その不登校って話と深夜徘徊してる話はちゃんと繋がるんでしょうね? そうじゃなかったらお母さん許しませんからね」

「お母さんじゃないです。でも、それは――」

 マツモトは首を傾げた。

「それはマスダさんがフリーターな事と、今こうやって深夜に女子高生と話をしている状況が繋がらないのと一緒じゃないですか?」

 微妙にニヤついた顔つきでマツモトは言った。「確かに」と、俺は適当に頷いた。

「話がどこで何と繋がるかなんて、気分次第なんだな」

「ホントですね」

「二人ともまた一つ賢くなったな」

「敏腕プログラマーになれる日も遠くないですね」

「これなら一年後にはマーク・ザッカーバーグだあ」

 お互いの適当レベルが最高潮に達しつつあった。もはやこの会話には何の意味もない。というか、多分最初から意味は無い。

 それからしばらく俺たちは無言でいた。てんでバラバラの方向を向きながら、ただ流れる時間に身を任せた。


 沈黙を破ったのはマツモトだった。

「その話で言うなら――」

 遠くの明け始める空を見ていた俺は、そのままの体勢で話を聞いた。

「ひとつ、私が聞いたことある話をします」

「……それ、聞かなくても大丈夫そう?」

「話したい気分です」

「無性に?」

「ムショーに」

「なら聞きましょう」

「十年くらい前にあった話です」

「お、コーラとポップコーンが必要そうだ」

「茶々は入れられたくはない気分です」

「――失礼。どうぞ」

「ある所におばあさんがいたんです。そのおばあさんは歳をとってもしっかり者で、お仕事もちゃんとやれてました」

「僕らもそうありたいものだねえ」

「……まあ許しましょう。で、そのおばあさんはある日、記憶を無くしてしまいました」

「もう泣いた」

「泣かないでください。途方にくれたおばあさんは、ある人に助けてもらいました。そして新しい名前と新しい生活を手に入れました」

「え、住民票とかどうすんの? 警察は? 家族は?」

「ぜひ黙ってくださいね。それで、おばあさんは良い感じに新しい生活が馴染んできた頃、ひとつだけある事を思い出しました」

「それは?」

「……それは記憶を無くす前の記憶の一つでした。ある友達と交わした約束でした」

「それは?」

「おばあさんはその時友達に言いました。自分はこれから記憶喪失になる。この事からは逃れられそうにない。だからひとつ、お願いしたい事がある」

「それは?」

「それはおばあさんが記憶を無くした後、誰かにある物を渡す所を見届けてほしいという約束でした。自分がきっとそうするであろう事を、おばあさんは分かっていたのです。だから――ん、相槌が無いですね?」

「いいぞーもっとやれー」

「テキトウにやらないでください。ふさわしい合いの手をお願いします」

「……で、誰かって? ある物って?」

「結構です。話を続けます。誰か、というのはおばあさんにも分かりませんでした。ある物というのは一つのカギの事でした」

「カギ?」

「そう、カギです。古ぼけた大きなカギ。それはその誰かに渡されなくてはならない物だったのです。少なくともおばあさんにはそのような確信がありました」

「……ボケてた?」

「大丈夫でした。そんな事を言われた友達は、今一つ理解も追いつかないまま、とにかく了承だけはしました」

「そりゃいきなりそんな事言われたらねえ」

「でも本当にそうなりました。おばあさんは記憶を失い、友達はその時をじっと待ち続けました。やがて友達にも少しずつ分かってきました」

「何が?」

「それが何を意味するのかが。そしてその友達がそういう事かとすっかり理解した時、その人は現れました」

「誰?」

「カギを渡される人物です」

「なんで分かったの?」

「知りません。とにかく、そうしてその友達はカギが無事にその人の手に渡るよう、見守りました。その人はおじいさんでした」

「ほう」

「で、無事にその人にカギが渡された、という訳です」

「また泣いた」

「泣かないでください」


……続きをマツモトが一向に話さない。

……え? つまり?

「……どゆこと?」

 俺はまっとうな疑問を口にする。当然だ。俺は話を聞いたぞ。で、この話が何だっていう? マツモトは心底不思議そうに首をかしげた。

「だから……どうでした?」

「はい?」

「どう思いました?」

「さっきの話を聴いて?」

「さっきの話を聴いて」

「あ~そうねえ」

俺は何とか感想を絞り出そうとする。

「何でそうなったの? って感じ」

「つまり?」

「……なんでおばあさん、記憶喪失になっちゃった?」

「そういうものだから」

「……なんでその友達、信じちゃった?」

「そういうものだから」

「……なんでカギ? なんでそれ誰かに渡さなきゃいけなかった?」

「そういうものだから」

「……そのおじいさんはなんでカギを受け取らなきゃいけなかった?」

「そういうものだから」

「……そのカギは結局何だった?」

「同上」

「じゃああたし、もう何にも分かんないわあ」

「そう、それ」

 マツモトはいきなり身を乗り出して俺を指さす。

「この話、なんにも分からないでしょう?」

「……そうだな」

 いきなりの動作にちょっと驚きながら俺は返事する。マツモトは続けた。

「まさにそれなんです。何にも分からない――あぁ良かった」

「は?」

「私もこの話、さっぱりでしたから。てっきり私の理解力の問題かと思ってたんです」

「ああ、そゆことね」

「そゆことです。あぁ、安心した。それでは、また」

 あ、ここで行っちゃうんだ。と、俺が拍子抜けしてると、ものの数秒でマツモトはいなくなった。凄い速足だった。薄紫の長い髪がふわふわしてて、何だかミヤビねえ、という適当な感想が浮かぶ。

……もういいや。俺も帰ろう。

 俺は缶コーヒーを飲み干して立ち上がり、それを持ったまま自転車を押した。


 結局何の話だったんだ。あいつの創作か? 小説でも書こうとしてるのか? お年頃だねえ――そんな風に考えていた。だがそんな思いとは別に、俺の脳裏にはさっきの話で妙に印象に残った事が浮かんでいた。エピソードそのものの事ではない。あの時あいつはあの話について、自分もさっぱり分からないと言っていた。

……違う。あいつは分かってる。マツモトはあの話が何を意味しているか、理解している。

 あいつは嘘をついた。

 そんな気がした。


参考資料

・Starship「We built this city」,1985

・ASIAN KUNG-FU GENERATION「マーチングバンド」,2011

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