同市YC街在住 カンナの場合⑤
カンナが目を開けると、淡々とした明かりを投げかける天井照明が視界に飛び込んできた。彼女は自分が事務所にいる事をうまく把握できなかった。もやがかった頭でゆっくり半身を起こし、周囲を見渡すと状況がようやく飲み込めてくる。
見慣れた仕事場だった。どうやら自分は長椅子で寝ていたらしい。壁に掛かった時計に視線を移すと、12時ちょうどだった。
事務所にはカンナ一人だけしかいない。フロアケース上に置かれたラジカセから音楽が流れている。ザ・カスケーズの『リズム・オブ・ザ・レイン』――カンナが立ち上がってラジオに近づくと、いつも通り周波数がFMKブルーに合わせられているのが見えた。彼女は曲に耳を傾けながら前後の状況を思い出そうとしたが、ワタナベの忘れ物であるあのカギを手に取った瞬間から先を上手く思い出せなかった。彼女は、あの灰色の商店街での出来事をほとんど全て忘れていた。
数分後にセリザワが現れた。
「おいおい、大丈夫かよ?」
小さなレジ袋を手に持った彼が、珍しく不安そうな顔を見せる。カンナがきょとんとしながら首を傾げると、セリザワが大げさな素振りで頭を掻いた。
「体調だよ、体調。どこか悪いのか?」
いつもと違って殊勝な態度を見せるセリザワ。私がこんな所で寝てるなんて、らしくなかったし、心配させちゃったんだろうな――そうカンナは思い至った。
「ええと――すみません。いつの間にかこんな所で寝ちゃってたみたいです」
「ちげぇよ」と、即座にセリザワは否定した。
「お前、覚えてないのか? 俺が飯から戻ったら、そこの床に倒れてたんだよ」
「……え?」
カンナが戸惑うと、セリザワは腕組をしながら「覚えてない、かあ」と床に向かって大きく息を吐いた。
「まあその調子なら、大丈夫かあ。人騒がせな後輩君だあ。ほれ――」
セリザワは言いながら、栄養ドリンクをレジ袋から取り出してカンナの手に押し付けた。カンナは目を丸くする。
「……えっと、ありがとうございます」
「ホントに大丈夫かあ?」
「大丈夫です! ご迷惑おかけしてすみませんでした」
「まあ、時間あったら明日病院行ってきな。疲れてんのかもだけどさ、何かあったらマズいし――明日、休みだろ望月?」
「ええ、まあ。というより――」
カンナは栄養ドリンクの蓋を回しながら言った。
「長椅子に運ぶとき、絶対変な事してますよね?」
「……あ~あ、ダイジョブそうでなによりだぁ」
セリザワは気の抜けた返事をしながら、デスクに向かって腰を下ろした。その仕草にカンナは小さく口角を上げ、栄養ドリンクをあおり、一息に飲み干す。それから何気なくセリザワの赤いネクタイに目が留まった。「色が付いてる」と、彼女は思った。なぜそう思ったのか彼女には見当がつかなかった。その後すぐに、彼女の脳裏に会った事もない子供の顔が一瞬浮かんだが、再び思い返そうとしても、どんな姿形をしていたのか、もう思い出せなかった。
翌日の昼前、カンナが自宅で洗濯を済ませると、そのタイミングでセリザワから電話があった。ワタナベが亡くなったらしい。心不全か心筋梗塞か、詳細は分からないが、とにかく心臓にまつわる何かが原因だった。彼は生放送後にどこかで人と会った後、午後11時に自宅へ帰ったようだ。ワタナベ夫人が翌朝目を覚まし、隣に眠る彼の姿を見て、その体が冷たくなって動かない事に気が付き、その事が発覚した。
電話を切ったカンナは窓に手をついて、外に広がるYC街を見下ろした。動揺はそれほどなかった。そもそも彼とは昨夜初めて会ったばかりであり、ほんの数十分会話して、数時間共に仕事をしただけの、ほとんど他人と言ってもいい間柄の人物だ。もちろんその人物が翌日に死んでしまったという事実には、幾分か思うところはある。気の毒だとも思う。しかしカンナが気がかりにしていたのは、そのような現実に則した事情が惹起する心境ではなかった。
なぜ、自分がショックを受けなかったのか――それはこの訃報を受けた彼女の心の隅に生じた、「そんな気がしていた」という感覚からだった。
ワタナベの死にはある種の必然性がある――そんな感覚を彼女は持っていた。無根拠な、ともすれば無配慮なこの感覚は一体何を元に生まれたのか。どこからやってきたものなのか。カンナは昨夜起こったことを振り返る。その夜の番組のゲストであるワタナベがやってくる。REYやセリザワとオンエア前最後の打ち合わせを行い、彼はREYと二人でブースに入り放送が始まる。無事にそれが終わり、彼は事務所を後にする。それからワタナベの忘れ物のカギを……あれ? あのカギって結局どうなったんだっけ? 思い出せない。
――ワタナベとの接点はそれだけ。あの灰色の世界の事は、何ひとつ覚えていなかった。
それから数日が経過する。カンナはあの日以来にRAYと事務所で会う。決まりが悪そうに、しかしそれを極力表に出さないように二人は会話をする。二三やり取りを交わした後、REYが「……あの座長さんさ」と気後れするように言った――その事に触れない訳にはいかなかった。
「ここで喋ってるときは、あんなに元気そうだったのに……ホントに残念だったね」
「……そうですね」
カンナは目を伏せた。それ以上の会話は無かった。何か言わなきゃ――カンナは言葉を探す。気の利いた、この場にぴったりな言葉を。
――見つかった。カンナは顔を上げ、REYに向かってこう言った。
「あるべきものはあるべき場所へ、ってREYさんこの間ラジオで言ってましたよね?」
突然そのような事を問いかけられたREYは、まごついて「えっと」と、言葉を探してしまう。
「……そんな事言ったっけ?」
カンナはうなずくが、REYにその記憶はなかった。
「ごめん、覚えてないや」
REYは申し訳なさそうにそう言い残し、10分後に迫った放送の為に一階のブースに向かった。カンナは驚いた。
彼女は気の利いた言葉を見つけて、REYにそれを伝えようとした――しかし実際にカンナの喉を震わせた言葉は、まるで別の言葉だった。
違う。私はそんな事を聞きたかった訳じゃない。私は――
その夜、カンナはディスコードでナツメグ・シンポジウムを呼び出した。誰かにこの話を聞いてほしかった、その一心で。
「ふ~ん、なんだか良く分からないけどさあ」
事情を聞いたメグは言った。
「なんか社会人って大変なんだねえ」
「……気の利いた言葉をありがとうございます」
「でしょ? ……てかモッチィ呑んでる?」
「“ほろよい”です」
「ストゼロじゃなくて何より――んでさ、うち気づいちゃったんだよね」
「何にですか?」
「犯人」
「え!?」
カンナは思わず大きな声を上げる――“ほろよい”を既に三本開けた彼女は、抑えが効かなくなっていた。
「……ごめん。良く考えたら不謹慎だわ。やっぱ止める」
メグは早々に白状した。彼女は座長の死を事件と見立てて、軽はずみな冗談を創作しようとしたのだ。カンナはそれをすぐに察し、「……よろしい!」と満足そうに言った。
「メグさんも良く理解しておくといいですよ。仕事でイエスかノーで返答出来る事以外を喋らなきゃいけない場面がやってきたら、相手が自分に期待しているであろう対応以外の発言をしちゃいけません! 職場の皆が考える自分を上手にイメージして、そのいめーじされたじぶん が いいそう な くちょう で はつげん しましょう!」
「はい先生!」
メグは恭しく返事をする。
「ただ最後の方……この酔っぱらい、何言ってっか分っかんねえ」
「それ ひゃくてん の たいおー ですよぉ」
「何点満点?」
「ごせんてん」
このまま話していると危ない。そう判断したメグは無理やり話を切り上げ、通話を終えた。
それから更に時間は流れた。古美術カフェの店主のラジオ出演の話は、ワタナベの死から2週間後にまとまり、当初の予定より少し遅れながらも8月中旬に無事に放送された。カンナが企画した(と、言う事になっている。半分以上、陰で助け舟を出していたセリザワの成果だった)という触れ込みが社内で広がると、彼女は称賛された。小さな仕事とは言え、初めから終わりまで新人がやり遂げたのだ。まずはそれを讃えてやろう。そういう事だった。
いざ放送が始まると、あの店主の熱意は凄まじかった。留まる事を知らないマシンガン・トーク。パーソナリティを置き去りにするほどの強引さ。次から次へ、あっちに行ったりこっちに行ったりと忙しないスペクタクルな様子――
リスナーからの問い合わせメールにもそれは現れていて、「あの力強く目まぐるしい勢いでおもしろトークを回すあの人物は、本当に素人だったのか」という意見が主だった。それを受けたFMKブルー内では目下、古美術カフェの店主をどうにかパーソナリティに引き込めないか、という議題が持ち上がっているらしいが、現時点でカンナはその事を知らないでいる。
更に時間は進み9月になった。夏の暑さもようやく退き、秋の気配が街に訪れる。
FMKブルーにも行楽の季節を賑わせる、秋めいた情報が連日流れてくる。K町にある大きな公園で開催されるコスモスまつり。S街はアメリカ海軍基地の近くにある広場での海軍カレーフェスタ。それから少し先に控えているハロウィンイベント――
例の件で以前より勢いづいたカンナは、こなれた様子で仕事をこなす。最近は行政からの告知依頼とは別に、町かどの人々からの宣伝案件に耳を傾ける機会が増えた。それを企画に落とし込む。もちろん彼女一人では出来ない。相も変わらずサボり続けるセリザワに助言を申し出る。滅多に顔を合わせない、あのFMKブルーの幽霊ことツノダにも、自ら居場所を尋ねてアドバイスを求める。
カンナは彼と話すようになって分かったことがある。それは彼が普段から、意外なほど近くに存在していたという事だった。彼はいつも、カンナや他の人間とほとんど変わらない範囲で仕事をしている。にも関わらず彼の姿を見かけない理由は、単なる行き違いが主だった。ブースや事務所など、常にあとほんの数秒、数メートルという僅かな差で行き違いになっているのだ。それでお互いその存在に気が付かないでいたりする。それがこのFMKブルーで働く全ての人に生じていた。
そう遠くない位置にずっと彼はいたのだ。
偶然――幽霊は偶然が生み出したのだ。
あの異様な体験はあの日を境に一切の姿を現さない。時折あのカギの事を思い出す事はあったが、誰に聞いてもそんな物を見た事は無い、と口を揃えて皆は言う。
あれは消えてしまったのだ。次第にカンナも気にする機会が減り、やがてカギの存在そのものもいつの間にか忘れてしまっていた。
9月28日、正午。彼女はいつものように事務所で一人デスクに座り、キーボードを叩きながら、イヤホンでラジオを聴いている。階下でオンエア中の『シティ・インフォメーション』のコーナーだった。パーソナリティはイシカワ。彼女は行政委託された町の情報を淡々と読み上げる。やや退屈そうだった。カンナやセリザワのような馴染み深い人にだけ分かる、微妙な声のトーンの差。進行に一切の差し障りは無かった。
そんな中、事務所にインターホンの音が鳴り響く。
……業者さんかな? カンナはそう思った。
――そう言えば今日来てくれるって言ってたっけ。最近、事務所の電灯の一部が付かない事がある、と誰かが言っていた。きっと電球交換の見積もりにでもやってきたのだろう、と。
カンナは壁際の受話器を取る。彼女の予想とは違い、緊張で上ずった女性の声が聞こえる。その声は自らの素性を受話器越しに明かした。どうやらK町にあるY高校の生徒のようだった。
Y高校――彼女の弟が今年から通っていた高校と同じだった。
……高校生の子が突然、何の用だろう? 取材か何か入ってたかなあ?
カンナはそう思いながら一階に向かう。事務所を抜け、細く暗い階段の輪郭を確かめるようにゆっくりと降りていき、出入口をゆっくり押し開けると、商店街を行きかう人々の賑やかな足音がその扉の隙間から漏れ出るようにして、カンナの耳に軽やかに飛び込んできた。
参考資料
・Starship「We built this city」,1985
・ASIAN KUNG-FU GENERATION「マーチングバンド」,2011




