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私小説論  作者: 藤堂 豪
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私小説論 後編

前回の続きです。私小説の今後について、ちょっと考えてみました。

 こうした事がある上で今後の私小説の在り方をどうすればいいのか最後にその事を私なりに述べて終わりにします。


 今後まず、考えなければならないと思われるのは、私小説の定義とか意義とかでは無く、読み手としての質の向上だと私は考えております。何も全部が全員、芸術とは何かとか、そういった奥深い事を考える、という事では無しに活字をどれだけ楽しむ事が出来るか、という事です。活字を楽しむ事が出来なければそもそも文学など読めない。何故なら文学は文字によって物語を構築する物ですので、そもそも文字が読めなければ文学云々も無い、という事だと考えております。その上で活字をどれだけ楽しむ事が出来るのか、という事を申している次第です。日本語には幸い、英語などのアルファベットと異なり一言一言に意味があり、その意味を深く考える習慣という物が日本語を扱う我々日本人にはちゃんと遺伝子として備わっております。誰でもです。極当たり前の事として文字を読む事が出来るのが日本人のいい所では無いかなぁ、と思ったりも実はしております。しかし意味をどれだけ考えて読んでいるのか、そこはどんどん疑問が膨らんできます。そうして言える事は学力の低下とかそういう事では無く、感受性の問題にあると思います。


 それは情報が溢れる現代社会の中で、どの情報が正しくて、どの情報をどう受け容れるようにすればいいのか、段々見境がつかない所迄もう来てしまっている、と考えた方がいいのかも知れません。そこをもう一度日本人誰しも、見直す必要性があるのでは無いか、と私含めて思っております。その上でどう書けばいいのか、という事を考えるといいのかも知れません。そうして今度は書く事について、論じてみます。


 原則として多種多様でいいと思われます。別段絶対的一人称主体の作品である必要も無ければ、三人称である必要も無いと思われます。しかしそれとは別に最低限、これは必要では無いか、と思われます。肝心なのは、読み手に対して、

「これは本当にあった事なのか、それともフィクションなのか」

と感じさせる事、その大元は作者の体験が中心となる事はまず間違いが無いのですが、微妙なフィクション性と芸術性の有無、という点が求められるのでは無かろうか、と考えられます。



 まずフィクション性について。



これは事実を元にしたストーリー展開でありながら、やはり事実に戻ってしまう、という事、即ち事実とフィクションとの線引きという事ですがこれは作者にしか判らないのです。しかしながら考えてみて下さい。自分自身の過去を振り返りそれを語る、という作業について。これはとても難解です。と、言うのは自分自身の主観でしか物を語る事が出来ないからある意味どうとでもなるのです。どうとでもなるという事は怖ろしい事で、どうとでも脚色を付ける事が可能なのです。その時、その瞬間、過去の自分自身は考えていなかったとしても、改めて振り返るとあぁ、こういう事を考えていたな、という事です。ここを主人公の体験として物語を動かすのか、或いは作品の中での解説的な文章としてこれを書き加え例えば、

「今の私ならこう思うだろう」

というような前置きを置くのか、そういった部分は作者の力量に問われる物語作りの根幹にも関る点なので、ここを曖昧にしてしまうと、非常に読む方も疲れてしまう作品になり、そうすると傑作とは少なくとも呼ばれないでしょう。先に例で挙げました太宰の『道化の華』はそこを線引きしているのですが、『人間失格』にもつながる共通点として、線引きしているのは線引きをしているが、途中でその線引きがややもするとわかりにくくなってしまう、という点があります。往々にしてそこは太宰そのものが苦しみ悩みもがいている時期の事であり、心中を図ろうとしたシーンや薬に狂ったシーンなどはその線引きが曖昧だったりします。しかしその様子すらも太宰は作品の中に書き入れ表現をしたので、傑作とも言われますが、太宰情死を受けて安吾が書いた『不良少年とキリスト』のように、文学の枠から滑り落ちた、などとも言われたりして賛否両論だったりします。それは自分自身の事実をどのように受け容れているのか、例えば楽しい事、嬉しい事、或いはどうでもいい事、即ち頭で処理出来る問題はちゃんと線引きが出来るが、頭で処理出来ない問題は線引きをし切れないという人間がそもそも持つ、思考能力の限界を突き詰めている姿だと私は考えております。そういった意味合いでは私は安吾の論には賛成出来ませんが、しかし文学として、芸術として、それを必ず書き残す、という芸術論として考えると安吾の論に賛成出来ます。皆様はどうでしょうか?


 フィクション、そう捉えられても仕方の無い、若しくは本当に物語のアクセントの為に創り上げたフィクションを書き加える、という作業に入る訳です。しかしもう一つここで見逃してはならない事は、作者が曖昧だ、記憶が定かでは無い、と思っている事について。そこを補う為のフィクションでもあったりするケースが多々あると思います。私自身も自らの私小説を書いていて、それは思った事でした。私の記憶そのものが頼りない、というよりは覚えていない、という事実がどうしてもあり、小説の中で起こる時間変動に対応し切れているのかどうなのか、どうにもこうにも不安で不安でならない、という事はありました。その為に加えるテクニックの一つがフィクションであり、しかしそこから拡がる物語をどう処理していくのか、その戦いに作者は常に挑まなければならない事を私自身は学びました。人間の記憶そのものが曖昧である為、その人間の限界にどれだけ挑む事が出来るのか、そういった事が私小説の中では繰り広げられるのです。逆に自伝的小説ではそのような事は繰り広げられません。何故なら「覚えていない」その一言で片付けてまた時間変動を表現すればそれで事が足りるからです。そこにまず自伝的小説と私小説との大きな違いがあります。だから私小説にはフィクションが含まれていても私はいい、寧ろ芸術的作品として、それを含んでいる方が読み手が楽しい、とすら思っています。


 そうしてもう一つ、芸術性という点について。


 これはどこをどう取って芸術と語ればいいのか、本来はそこから言わなければならない大きな問題なのですが、それを言い出すと限が無いので止めるとしても文学の中での芸術性という点について、そこを考えればいいと思います。即ち所謂文学表記と呼ばれている部分、文学的表記とも言われる部分です。更に噛み砕いて言うと、ドラマティックにするかどうか、即ち演出です。演出と先に述べたフィクションとは違います。演出部分は作者の感性に頼る部分であり、フィクションは作者の記憶に辿る部分であるからです。


 この感性という奴が曲者で、絵描きさんのようにピーンと来てその感覚そのままを絵画として表現出来れば一番いいのですが、文章書きはそうは行かない。その、ピーンと来た事をそのまま文章として表さなければならないのであり、その感覚を鍛え上げればテクニックにもなるのですが、日常からそのような事を考えて生きていると正直息が詰まり、やがては自分自身の破壊活動を自分自身の中で始めてしまう事は多々あり、優れた芸術性を持ちながらも自殺したり早死にしたりする人は、往々にして、息が詰まるような生き方をしてしまった人なのかも知れない、と多くの作家・芸術家の自殺などを見ていると思います。そういった意味で、ミュージシャンのタジマタカオさんは町田康さんの解説文の中でで面白い事を言っていました。



「作家という人たちはぼくらミュージシャンよりもどこかずっと壊れていて〜中略〜フィクションの狂気の世界から普通の生活に必ず戻って来れるような〜後略〜」

(『テースト・オブ・苦虫』の解説文の中から)



確かにそうかも知れないです。その狂気の状態とは人それぞれ異なるとは思いますが、やはり感性的な事ばかりを考えて、それをどのように文字情報として表現すればいいのか、その事を突き詰めると、ある種の狂気を抱きます。狂うのです。頭の中の歯車が。常識的な概念など全てぶち壊して、そうして一つの花を咲かそうとするのです。私は恐らく今これを書いている時は、音楽を掛けながら頭で考えてこの文章を論じているだけなのでそれは無いのでしょうが、小説の時は明らかに違うのは私自身も何となく自覚しております。他人にも何度かそう指摘された事があります。それは書いている時もそうですが、外に出ている時でも頭の中は小説で一杯、という事がありますからそういう時に。そうしてその感性とお付き合いをしていると、物凄いエネルギーを消費している自分に気付きます。狂気状態だと恐らく、常軌の時の数倍エネルギーを消費している事と考えられます。それは自らの感性を自分では百%だと思って使い切っているからに他なりません、そうするとやはり傍目には変な状態に見られてしまうのでしょう。更に文章書きという人間は常に自らを客観視しているので、一度そのような事を言われてしまうと今度はそのような状態に居る自分自身を見て見たい、そうしてそれを書きたい、と思ってしまうのです。そうして再び自らの感覚を頼りに、感性を磨く為のありとあらゆる工作を繰り返し、それがやがて文学表現として成立するのです。


 所謂それは芸術的な文章、という物です。その為に作者はゲロまみれになり、血反吐を吐いたり、車走りまくる深夜の国道で道路のど真ん中で寝転がったりして、自らの感受性を高めて行き、芸術的な原稿を創り上げていくのです。その背景には常に死ぬか生きるか、常にその二つしかないのです。だから息が詰まるのです。常に狂気との隣り合わせだと言われても、お前の考えている事がさっぱりと判らない、と言われても、それはもう本人にしか判らないので仕方の無い事だと思っています。何しろ常軌で居る時の本人ですら、判らない事を考えている事があるのですから。しかし幸い、私の場合はその息詰りという物が頭痛や自らの脳波や神経の疾患として現れ、ぶっ倒れたり、延々と気を失ったかのように眠り続けたりするのでまだコントロールが出来ます。しかし本来はそんな事、コントロールはしたくは無いのです。二十五でその病だと発覚し、私の目の前は真っ暗になりましたが、その真っ暗になった理由はとことん追求し、そうして死にたいと考えていたからです。けれども身体がどうにもこうにも持たないらしく、前後不覚の状態になるらしく、その時の事を表現出来ればどんなに凄いだろう、と思うのですが、記憶が全く無くなるのでそれすらも出来無い自分自身が思わず情け無くなってしまいます。けれどもそうはいかない健康な人の方が大半だと思うから、そうすると思い詰め過ぎてしまい、遂には行き着く所が死、例えば三島由紀夫などがその最たる人物であり偉人ではなかろうか、と思います。彼は武士道の中にその事を見出し、見事な最期を遂げましたが、そうは行かなくて、何の為に、何の為に、というその大義名分が見付からず自らの感性だけが独り歩きしてしまい、そうして迷い懊悩し、とうとう究極迄辿り着いたら死を選んでいた、という人は沢山居ると思います。個人的に代表的だな、と思うのは川端康成です。対比としてこの二人の死は言われるのは周知の通りですが、私はまた、別の見解を持っています。即ち究極の後の虚無、それはそれ以前に於いては漱石でも芥川でも辿り着く事の出来なかった、ある種のユートピアなのかも知れません。芸術家として。しかし人間として、どうなのか、その答えは私はまだ死んでいないので判然としません。死の直前でなければ恐らく判らないのかも知れません。何度も持病のお陰で死ぬような破目には遭っていますが、その瞬間の記憶が全く無い為、全く判らないのです。そうしてそのユートピアが果たして本当に人間として素晴らしいものなのか、それも私には判りません。闇雲に自殺を否定する訳では無く、寧ろ否定などしていない。しかし肯定も出来ない、ただそれだけなのです。況や芸術の中に存在する人間に於いてすらも。


 そういう文学の芸術性、という中で自分、という書き手が主役に入り物語を形成していく、その作業はとてつもなく作者にとっては重たい作業であり、芸術とテクニック、フィクションと真実、常にその鬩ぎ合いが起きるので少なくとも先に述べた戦いの他にこれがあるから、結局二つの戦いを作者は強いられながら私小説を書く、という事になります。



 最後に………



 私小説とは、そういった戦いがあってこそ初めて成立する純粋な文学活動であり、今後もより一層、その純度を高めていく以外に無い、書き手は常にその事を意識しながら自らの骨身を削り、肉を削り、脳味噌を削り、限界迄挑み続けて、そうして書き上げていくよりこれからも他無いのだと思います。それはこれだけ情報が溢れた社会の中で、そういったジャンルそのものが生き残っていけるかどうかの瀬戸際にあると言っても過言では無いからであり、大衆に受ける、受けない関係無く、そういった思想そのものが無くなってしまうと芸術そのものが、文学そのものが、これ以上に無い薄っぺらい、ただ単に本屋が喜ぶ、大衆が喜ぶ、そんな軽薄極まり無い文学になってしまう前に、改めて己との戦いとは何なのか、そういった事を深く考えさせる為の読み物が絶対に必要だ、私はそう考えております。更にその上で、どのような生き方を今度は人としてしていければいいのか、勿論百人百通りあって然るべきだとは思いますが、芸術という物、感性を育てる、という事を考えた時にどのような生き方をしていけばいいのか、そういった場を考えさせられるいい教本が私小説であり続ける必要性があり、それは私小説を読んだ時にだけ、即ち人の人生を覗き見た時にだけ、味わえるある種の感慨はこれからの時代、増々求められるからどのような生き方をしていけばいいのかを考えなければならないと私は率直に思います。その為には絶対に私小説が必要であり、私小説を読む事は真理を見抜く力、それを養う事にもつながり、人間性を高める為の訓練になると思います。したがって、私小説とは、読み手も書き手も人間性を高める為の訓練の場であり、ある種人が悩みにぶち当たった時は、避けて通る事の出来ない物をこれからはそこを目指して、それぞれが創り上げて行ければそれが一番いいのかも知れません。謂わば哲学書的な方向を目指していけばいいのかも知れないですね。しかしそれでは本屋で埃に被ってしまうだけで終わってしまいます。だからより強く、そうしてより狂気と隣り合わせになれるような、読み手をただ単に楽しませるだけでは無い、娯楽の枠を超えた文学を徹底して訴えられるような、そういった物が今後はより求められると私自身、書き手側の人間として改めて考えました。




最後迄お読みくださった皆様、誠に有り難う御座いました。良かったら是非ご意見などお聞かせ頂ければと存じます。エッセィにしたら若干重たい内容だったかも知れませんが^^;

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