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27/31

27,割れた花瓶

 四月に入り、そろそろ新学期が近づいてきた。伯母の怪我もずいぶん回復してきたようだ。

 

 その日、里樹は朝食の後片付けをしていた。練も手伝ってくれ、東吾にいたっては、リビングルームや廊下など、共有の場所の床に掃除機をかけてくれている。

 

 寮費も払ってもらうのだし、自分の仕事だから気にしなくていいと言ったのだが、二人とも、学校が始まるまでは手伝ってくれるという。

 

 東吾は、以前スーツを買いに行ったビルの近くの飲食店でアルバイトの面接を受け、入学式を前に通うことになっている。

 

 ワゴンの上の使用済みの食器をシンクに運びながら、練が言う。

 

「東吾さん、バイトが始まったら、夕飯もあっちで食べて来るんですよね」


「そうだね。賄いってやつかな」


「里樹さんも、お店ではいつも賄いを食べていたんですか?」


「うん、忙しいから、仕事の合間に交代でね」


 忙しいのに、長期間休むことは肩身が狭かったのだが、専門学校の卒業後からずっと働いていて、里樹の事情を知っている店のオーナーは、快く受け入れてくれたのだった。


「へえ。それってやっぱり、メニューにはないやつなんですか?」


「そうだね。パパっと作れて、パパっと食べられるような」


「でも、なんか特別感があっておいしそう」


 和やかに会話をしながら食器を洗っていたそのとき、廊下で大きな音がした。

 

 掃除機の音に重なって、何かが激しくぶつかり、砕け散るような。

 

「えっ、どうしたんだろう」


 練はあわてて廊下に飛び出して行く。だが、里樹は。

 

 

 

 玄関ホールの棚の上に飾ってあった大ぶりな花瓶が床に落ちて割れ、かけらが散乱している。

 

 練には焼き物の知識はないが、白く滑らかな地に繊細な絵柄が美しく、花を挿していなくても、それ自体が華やかな花瓶だった。

 

「大丈夫ですか?」


 練が駆け寄ると、掃除機のスイッチを切った東吾が、外国人のような仕草で両手のひらを上に向けて言った。

 

「やっちまった」


 リビングルームから、杖をつきながら鞠子も出て来た。

 

「どうしたの?」


「すいません。俺、やっちゃいました。


 床しか見ていなかったもんだから、肘で思いっきり押しちゃって」

 

「怪我は?」


「それは大丈夫っす。だけどこれ、大切なものなんじゃ……」


 鞠子はほほえむ。

 

「いいのよ。きっと今がこの花瓶の寿命だったんだわ」


「でも、高価なものじゃないんですか?」


「昔、骨董市でほんの気まぐれに買ったの。安かったのよ。


 だから、本当に気にしないで」

 

「すいません」


 東吾は深々と頭を下げる。

 

「すぐに片付けますから」


「僕も手伝います」


 そう言った練に、東吾が聞いた。

 

「里樹さんの手伝いしてたんじゃないのか?」


「あっ、そうだった」


「ここは俺一人で大丈夫だから、早く戻れよ」


「じゃあ、そうします」



「里樹さん、すいません。さっきの音、花瓶が割れちゃって……」


 練はキッチンに入って行きながら、今の出来事を説明しようとして、途中で言葉を止めた。

 

「里樹さん?」


 里樹は、洗剤で泡立ったスポンジを握りしめたまま、床にへたり込んでいた。

 

 

 

 廊下で大きな音がした瞬間、里樹の頭の中に、突然、記憶の断片がよみがえった。

 

 

 里樹が蹴ったサッカーボールが当たり、低木の植わった植木鉢が倒れて割れた。

 

 中の土が、庭の敷石の上に飛び散る。

 

 サッシが開き、裸足で走り出て来たのは、顔はわからないが、おそらく父だ。

 

 彼は小さな里樹のスウェットシャツの胸倉をつかみ、頭がぐらぐらするほどに激しく揺さぶりながら怒鳴った。

 

「ふざけたことをしやがって。この、ケトウのガキが!」




「里樹さん、どうしたんですか? 大丈夫ですか?」


 練が問いかけているのはわかっているが、体が硬直して、何も答えることができない。

 

 心臓が早鐘を打ち、頭がギリギリと痛む。

 

 再びキッチンから出て行った練が、伯母の名を呼ぶのが遠くに聞こえた。

 

 

 

「鞠子さん!」

 

 練は、廊下で、ホウキとチリトリで割れた花瓶のかけらを掃き集めている東吾と、それをそばで見ている鞠子のもとに駆け寄る。

 

「里樹さんが……」


「どうしたの?」




 少し眠ったようだった。ふと意識が戻り、里樹は、自室のベッドの上で目を開ける。

 

 三人がキッチンに入って来たときも、里樹はまだ床に尻をついたままだった。

 

「なんでも、ない」


 口々に問いかける彼らに、そう言うのが精いっぱいで、立ち上がろうにも体に力が入らない。

 

 伯母の指示で、練が、里樹の手から握りしめていたスポンジを取り、泡で汚れた手を濡れ布巾で丁寧に拭いてくれた。

 

 結局、自分では立ち上がることができず、練と東吾に両側から支えられて、ここまで連れて来られたのだった。

 

 

 今はもう、気持ちも落ち着き、頭痛も治まっているが、さっきは自分でも驚いた。

 

 ときどき、過去の記憶が頭をかすめることはあったが、あんなにはっきりとしたフラッシュバックは初めてだった。

 

 あんなふうに、ひどく動揺したことも。

 

 おそらく、花瓶が割れた音が引き金になったのだろう。それで、植木鉢を割ってしまったときのことを思い出したのだ。

 

 それにしても、父の言葉の中にあった、『ケトウのガキ』のケトウとはなんだろう……。

 

 考えているうちに、里樹は再び眠りに落ちた。

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