27,割れた花瓶
四月に入り、そろそろ新学期が近づいてきた。伯母の怪我もずいぶん回復してきたようだ。
その日、里樹は朝食の後片付けをしていた。練も手伝ってくれ、東吾にいたっては、リビングルームや廊下など、共有の場所の床に掃除機をかけてくれている。
寮費も払ってもらうのだし、自分の仕事だから気にしなくていいと言ったのだが、二人とも、学校が始まるまでは手伝ってくれるという。
東吾は、以前スーツを買いに行ったビルの近くの飲食店でアルバイトの面接を受け、入学式を前に通うことになっている。
ワゴンの上の使用済みの食器をシンクに運びながら、練が言う。
「東吾さん、バイトが始まったら、夕飯もあっちで食べて来るんですよね」
「そうだね。賄いってやつかな」
「里樹さんも、お店ではいつも賄いを食べていたんですか?」
「うん、忙しいから、仕事の合間に交代でね」
忙しいのに、長期間休むことは肩身が狭かったのだが、専門学校の卒業後からずっと働いていて、里樹の事情を知っている店のオーナーは、快く受け入れてくれたのだった。
「へえ。それってやっぱり、メニューにはないやつなんですか?」
「そうだね。パパっと作れて、パパっと食べられるような」
「でも、なんか特別感があっておいしそう」
和やかに会話をしながら食器を洗っていたそのとき、廊下で大きな音がした。
掃除機の音に重なって、何かが激しくぶつかり、砕け散るような。
「えっ、どうしたんだろう」
練はあわてて廊下に飛び出して行く。だが、里樹は。
玄関ホールの棚の上に飾ってあった大ぶりな花瓶が床に落ちて割れ、かけらが散乱している。
練には焼き物の知識はないが、白く滑らかな地に繊細な絵柄が美しく、花を挿していなくても、それ自体が華やかな花瓶だった。
「大丈夫ですか?」
練が駆け寄ると、掃除機のスイッチを切った東吾が、外国人のような仕草で両手のひらを上に向けて言った。
「やっちまった」
リビングルームから、杖をつきながら鞠子も出て来た。
「どうしたの?」
「すいません。俺、やっちゃいました。
床しか見ていなかったもんだから、肘で思いっきり押しちゃって」
「怪我は?」
「それは大丈夫っす。だけどこれ、大切なものなんじゃ……」
鞠子はほほえむ。
「いいのよ。きっと今がこの花瓶の寿命だったんだわ」
「でも、高価なものじゃないんですか?」
「昔、骨董市でほんの気まぐれに買ったの。安かったのよ。
だから、本当に気にしないで」
「すいません」
東吾は深々と頭を下げる。
「すぐに片付けますから」
「僕も手伝います」
そう言った練に、東吾が聞いた。
「里樹さんの手伝いしてたんじゃないのか?」
「あっ、そうだった」
「ここは俺一人で大丈夫だから、早く戻れよ」
「じゃあ、そうします」
「里樹さん、すいません。さっきの音、花瓶が割れちゃって……」
練はキッチンに入って行きながら、今の出来事を説明しようとして、途中で言葉を止めた。
「里樹さん?」
里樹は、洗剤で泡立ったスポンジを握りしめたまま、床にへたり込んでいた。
廊下で大きな音がした瞬間、里樹の頭の中に、突然、記憶の断片がよみがえった。
里樹が蹴ったサッカーボールが当たり、低木の植わった植木鉢が倒れて割れた。
中の土が、庭の敷石の上に飛び散る。
サッシが開き、裸足で走り出て来たのは、顔はわからないが、おそらく父だ。
彼は小さな里樹のスウェットシャツの胸倉をつかみ、頭がぐらぐらするほどに激しく揺さぶりながら怒鳴った。
「ふざけたことをしやがって。この、ケトウのガキが!」
「里樹さん、どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
練が問いかけているのはわかっているが、体が硬直して、何も答えることができない。
心臓が早鐘を打ち、頭がギリギリと痛む。
再びキッチンから出て行った練が、伯母の名を呼ぶのが遠くに聞こえた。
「鞠子さん!」
練は、廊下で、ホウキとチリトリで割れた花瓶のかけらを掃き集めている東吾と、それをそばで見ている鞠子のもとに駆け寄る。
「里樹さんが……」
「どうしたの?」
少し眠ったようだった。ふと意識が戻り、里樹は、自室のベッドの上で目を開ける。
三人がキッチンに入って来たときも、里樹はまだ床に尻をついたままだった。
「なんでも、ない」
口々に問いかける彼らに、そう言うのが精いっぱいで、立ち上がろうにも体に力が入らない。
伯母の指示で、練が、里樹の手から握りしめていたスポンジを取り、泡で汚れた手を濡れ布巾で丁寧に拭いてくれた。
結局、自分では立ち上がることができず、練と東吾に両側から支えられて、ここまで連れて来られたのだった。
今はもう、気持ちも落ち着き、頭痛も治まっているが、さっきは自分でも驚いた。
ときどき、過去の記憶が頭をかすめることはあったが、あんなにはっきりとしたフラッシュバックは初めてだった。
あんなふうに、ひどく動揺したことも。
おそらく、花瓶が割れた音が引き金になったのだろう。それで、植木鉢を割ってしまったときのことを思い出したのだ。
それにしても、父の言葉の中にあった、『ケトウのガキ』のケトウとはなんだろう……。
考えているうちに、里樹は再び眠りに落ちた。




