2,フォレストハウスへ
標高が高いこともあり、ここは都会よりも春が来るのが少し遅い。
今は、ようやく木々の新芽が芽吹き始めたところだ。
車窓の外を流れる風景に目をやりながら、里樹はため息をつく。
伯母は、この自分に「厳しい指導」なんていうことができると本気で思っているのだろうか。
過去の出来事や、里樹の性格を知った上で。
しかも、最初は一週間程度だと言っていた入院期間は、年のせいで治りが遅いとか、検査をしたら血圧が高かったので、静養を勧められたという理由で、「里樹がよければ一ヶ月程度」と修正された。
里樹の生い立ちを知っているレストランのオーナーは、長期間休むことを快く了承してくれたものの、その間、里樹は一人で寮を切り盛りしなくてはならないのだ。
住宅地は、駅の周辺にわずかにあるだけだ。やがてバスは、小此木山に向かうゆるやかな坂を上り始める。
フォレストハウスは、山の麓の森の中に建っているのだ。
バス停で降りて、わずかに上り坂になったアスファルトの道路をしばらく行くと、木々の間を通る脇道が見えて来た。
その先にフォレストハウスがある。
門の脇の通用口から入り、石畳のアプローチを進んで行くと、憂鬱ながらも、だんだん懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
優しい伯母に迎えられ、心の傷を癒しながら、多感な時期を過ごした場所だ。
玄関ポーチにたどり着いた里樹は、ふうと息を吐いてからチャイムを鳴らす。
合鍵は持っているのだが、中に寮生がいることを見越しての行動だ。
ただ、寮生は外出しているかもしれないので、応答がなければ自分で鍵を開けて入ろうと思っていた。
だが、少しの間待っていると、ドアが遠慮がちに開いた。
「はい……」
ドアの隙間から顔をのぞかせたのは、緊張した面持ちの細面の少年だ。
里樹は自己紹介する。
「あの、ここの寮母の畝本鞠子の甥の、畝本里樹です」
いくらか表情を和らげて、少年が言った。
「ああ、はい。寮生の喜古嶋 練です。鞠子さんから話は聞いています」
「その節は、伯母が大変お世話になりまして」
掃除中に足を滑らせて転び、立ち上がることができなくなった伯母のために、彼が救急車を呼んで、病院まで付き添ってくれたのだと聞いた。
「いえ」
彼は恥ずかしそうにほほえんだ。
電車を降りて、指定された改札口に歩いて行くと、父がこちらに向かって手を振っているのが見えた。
自分の父親ながら、ビジネススーツを着た姿は、ちょっとカッコいいと思う。
改札を出て近づいて行く練に、父はほほえむ。
「場所はすぐにわかったか?」
「うん」
「じゃあ行くか。ちょっと歩くぞ」
父に、久しぶりに外で食事をしようと誘われたのだった。
連れて行かれたのは、こぎれいな洋食屋だった。案内された席に座りながら父が言う。
「和食や焼き鳥なんかも考えたんだが、練はこういうほうが好きかと思ってな」
父に何が食べたいかと聞かれ、練は、なんでもいいと答えたのだった。
「なんでも好きなものを頼め。遠慮はいらないぞ」
「うん……」
メニュー表に目を落としながら、練は考える。どうして父は、急に外食をしようなんて言い出したんだろう。
その疑問は、ハンバーグセットを食べ終え、デザートのアイスクリームに手をつけた頃に解けた。
スプーンで掬ったアイスクリームを口に入れる練を見つめながら、父が言った。
「お父さん、ロンドンに赴任することが決まったんだよ」
「え?」
「練のこともあるし、ずいぶん迷ったんだが、これもいい機会だと思ってな」
「……そう」
いい機会とは、仕事の上で、ということなのか、あるいは……。
「赴任は来期からだから、まだ時間はあるけど、練はどうしたい?」
「どうしたい、って?」
コーヒーを一口飲んでから、父は言う。
「つまり、お父さんと一緒にロンドンに行って向こうの学校に入るか、こっちに残るか。
ただ、今の家に練を一人残して行くのは、ちょっと心配でな」
父と練は二人暮らしなのだ。そして、父が心配する理由は、おそらくそれだけではないことも想像がつく。
だが、練は言った。
「どうして? 僕なら平気だよ。今までだって、ほとんど一人みたいなものだし」
父は仕事が忙しくて、いつも帰りが遅い。
「それはそうだが、昼間だけ一人なのと、ずっと一人なのとは、わけが違うだろう。
日本に残りたいなら、おじいちゃんたちと同居するのはどうだ?」
練は、アイスクリームが入ったガラスの器の受け皿にスプーンを置く。
「どっちにしても、転校しなくちゃいけないんだね」
祖父母の家は他県にあって、そこから今の学校に通うのは不可能だ。
とはいえ、どうしても今の学校に通い続けたいわけではないが。
「転校したくないなら、おばあちゃんに、こっちに来て同居してもらうか?」
「いやだよ」
練は反射的に答えていた。祖父母のことは好きではないし、家に来てほしくない。
父も、練の気持ちはわかっているはずだけれど。
「そうか……」
困ったようにため息をついてから、父は言った。
「どうするのがいいか、これから一緒に考えよう。ほら、溶けないうちにアイス食べろよ」




