1,伯母からの電話
三月も終わりに近づいた日の昼下がり、畝本里樹が乗り込むと、駅前に停車していたバスは間もなく発車した。
ほかに乗客はいない。
彼は、ほっとして座席に旅行用のバッグを置く。駅から小此木山行きのバスは、一時間に一本弱しかないのだ。
ここは小此木山の麓ではあるものの、山を挟んで登山口駅とはほぼ反対側にあり、観光地の賑わいからは遠い。
バッグの横に腰を下ろしながら、里樹はこれまでのことを思い返す。
久しぶりに伯母から電話がかかってきたのは、ほんの数日前のことだ。
それは、仕事場であるレストランから帰って来て、マンションの部屋で一息ついているときのことだった。
「里樹、元気にしてる?」
「うん、元気だよ」
「そう、よかった。あのね、ちょっと里樹に相談があるんだけど」
「相談?」
「相談というか、お願いなんだけど、実はね……」
話を聞いた里樹は困惑した。
「そんな、僕には無理だよ」
だが、伯母は言う。
「そこをなんとかお願い。里樹のほかに頼める人がいないのよ」
伯母の鞠子は、里樹が物心ついた頃には、すでに未亡人だった。
子供はなく、アイルランド人の資産家だったとかいう亡き夫が残した小此木山の麓にある洋館に、一人で暮らしていた。
小学生のときに両親を亡くした里樹は、それから高校を卒業するまで、伯母の洋館に身を寄せていたのだ。
明るく気のいい伯母は、実の母のように里樹を育て、ときには友達のように接してくれた。
そのおかげで、両親のいない寂しさを感じることもなく、自然豊かな場所で、のんびりと少年時代を過ごすことができたのだった。
里樹が中学生のとき、隣町に、シブフォート学園という、中学から大学までの一貫校が新設された。
それを機に、伯母は広い洋館を利用して、主にそこの学生を対象とした寮を始めた。
洋館は情緒があって美しく、客を泊めることを前提として造られているため、数室ある客室はバス・トイレ完備だ。
ただ、学校から離れた辺鄙な場所にあるため、伯母は部屋代を安く設定した。
もとより、伯母は人をもてなすことが好きで、金儲けが目的ではなかった。
そのためか、「フォレストハウス」と名付けた寮は、入寮希望者が途切れることはなかった。
伯母は寮内の秩序を守るため、規則を細かく決めた。事前にその旨を伝え、了承した者が入寮を決めた。
そのため、比較的真面目な学生が集まり、寮内は穏やかな雰囲気で、大きな問題が起こったことはない。
里樹も伯母を手伝った。寮生は大学部に通う学生ばかりだったが、地元の公立中学に通っていた里樹にも、みな優しく接してくれた。
人見知りが激しい里樹が、誰かと特別に親しくなることはなかったが、いやな思いをしたこともなかった。
伯母を手伝ううちに料理に興味を持った里樹は、高校卒業後に調理師の専門学校に進み、その後レストランで働くようになったのだった。
ここ数年、里樹が伯母のもとを訪れるのは、長い休暇のときだけになっていた。
夏休みや年末年始は、寮生も実家に帰って過ごす者が多いので、昔のように伯母と二人でのんびり過ごすのだ。
電話で伯母は言った。
「実はね、今、病院に入院しているの」
「えっ?」
「転んで、足と腰を痛めてしまったのよ」
「大丈夫? 怪我はひどいの? 骨折とか……」
「ううん、骨はなんともないけど、一人では身動きが取れないから、最初に行ったところから転院して、国原さんの病院に入れてもらったのよ」
「そう……」
伯母は、病院を経営している国原夫妻とは、交流会か何かで出会って以来の付き合いだそうで、昔、国原夫人が洋館に遊びに来たこともあったはずだ。
その国原医院にいるならば安心だと思ったのだが、そこで里樹は、はっとして聞いた。
「寮はどうしたの?」
伯母が入院してしまったのなら、寮生はどうしているのだろう。今は春休みだから、誰もいないならば問題はないけれど。
すると、伯母は言った。
「ちょうど卒業の時期だし、今年は4年生ばかりだったから、ほとんどの子がすでに退寮しているの。
だから、今いるのは一人だけよ」
「えっ、一人いるの?」
「そうなのよ。こちらの都合で出て行ってと言うわけにはいかないし、ちょっと事情がある子なのよ。
でも、部屋が使えればそれでいいって言ってくれているし、とてもいい子だから」
「はあ……」
それにしても、寮とはいえ伯母の住まいでもあるし、里樹の部屋や私物だってある。
たとえいい子でも、他人を一人で住まわせておくのは、ちょっと不安だ。
そんなこと考えていると、伯母が言った。
「そういうわけだから、新規の入寮は断っているのよ。でも」
なぜかそこで言葉を切る。どことなくいやな予感がする。
「……でも?」
「すでに入寮が決まっている子が二人いるの。今になって断るわけにはいかないわ」
「え……」
言葉を失っていると、伯母は続けた。
「それでね、私が動けるようになるまでの間、里樹に代わりに寮の管理をやってもらえないかと思って」
里樹はあわてて返す。
「そんな、僕には無理だよ」
「そこをなんとかお願い。里樹のほかに頼める人がいないのよ。
管理と言っても、料理と掃除だけしてくれればいいの。あなた、料理ならお手のものでしょう?
もちろん、レストランをしばらく休んでもらわなくちゃいけないのは申し訳ないけれど、その分きちんとお礼をさせてもらうから」
「お礼なんて別にいいけど……」
いくら料理と掃除だけすればいいと言われても、自分に寮の管理などできるとは思えない。
大人になっても相変わらず人見知りで、人付き合いの苦手な自分が、寮生たちと上手く接することができるだろうか。
とはいえ、新しい寮生もやって来るというのに、放っておくわけにはいかない。
何より、ずっと世話になって来た伯母が困っているのだ。
それで、渋々ながら引き受けることにしたのだが。里樹がそう言うと、さっきは料理と掃除だけしてくれればいいと言っていた伯母は、とても喜んだ後で口調を変えて言った。
「大切なよそのお子さんをお預かりするんだから、みんなが快適で安全に生活できなくちゃいけないわ。
それには、今までもずっとそうしてきたように、みんなが規則を守ることが大切なの。
そこのところは、是非とも里樹が厳しく指導してちょうだいね」
「き、厳しく……?」




