17,過去形
三人で朝食を再開する。食べかけの料理はすっかり冷めてしまっていたが、練も東吾もこのままでかまわないと言った。
「落ち着いたら、念のため病院で診てもらったほうがいいかな」
里樹の言葉に、東吾が答える。
「そうっすね。それにしても、あの傷、DVの跡ですかね」
「うん……」
練が言った。
「湊くんは風の音が苦手みたいだけど、そのことと関係しているんでしょうか」
「そうかもしれないね」
「あの……」
練が、言いかけて口ごもる。
「何?」
「里樹さんも、そういうのってありますか?」
「ああ、そうだね。やっぱり怒鳴り声とかは、ちょっと苦手かな。
でも、ここに来る以前のことは、あんまり覚えていないんだよね。両親は亡くなっているんだけど、実は二人の顔も思い出せなくて」
「そうなんですか。変なことを聞いちゃって、すいません」
里樹はほほえむ。
「いいよ」
東吾が言った。
「それって、脳が辛い記憶に蓋をしている、みたいなことなんじゃないっすか?」
「そうかもしれないね」
脳は、勝手に記憶を作り替えることもあると聞いたことがある。ときどき見る、燃え盛る炎を見て泣きながら母を呼ぶ夢も、果たして現実にあったことなのかどうか。
朝食の後片付けをした後、廊下に掃除機をかけていると、練がやって来た。
「里樹さん」
「うん?」
練の不安げな表情に、里樹は掃除機のスイッチを切る。練が言った。
「湊くんが……」
部屋に行くと、湊はベッドの中で横になったまま泣いている。
「火傷が痛むの? それとも気分が悪い? これから病院に行こうか」
タクシーを呼んで病院に連れて行こう。そう思ったのだが、湊は顔を歪めたまま、首を横に振る。
「違う。ちが……」
里樹は、思わず練と顔を見合わせる。食事の後、練が様子を見に来ると、眠っているかと思った湊が泣いていたのだという。
理由を聞いても、泣きじゃくるばかりで要領を得ないので、困った彼は、里樹を呼びに来たのだった。
「どうかしたんすか?」
東吾も様子を見に来た。そして、湊の様子を見て話しかける。
「なあ、どうしたのか言ってみろよ。みんな心配してるぞ」
だが、湊は答えない。そこで、里樹も話しかける。
「具合が悪いのなら、なるべく早く病院に行ったほうがいいと思うんだ。
火傷も、念のためお医者さんに診てもらったほうが安心だし。
でも、ほかに理由があるなら、どうして泣いているのか話してくれるとありがたいんだけどな」
湊がしゃくり上げながら言う。
「具合は、悪くない。僕は……あ……」
まだ話をするのは無理なようだ。とりあえず、急いで病院に行く必要はなさそうなので、少し落ち着くのを待つことにした。
そばに付いているという練をその場に残し、里樹と東吾は部屋を出る。
東吾は自室に戻り、里樹は掃除の続きを再開した。
練は、窓辺に移動させた椅子に座り、外を眺める。風は先ほどより弱くなっているものの、空にはどんよりと灰色の雲が垂れ込めている。
湊のことが心配で、一人部屋に置いて行くことができず、かと言って、そばにへばりついていては彼もうっとうしいだろうと思い、ベッドから離れたここにいることにしたのだ。
静かになったようだけれど、眠ったのだろうか。湊は朝食もろくに食べていない。
まだお腹は空かないのだろうか。昼には食べられるようになっているといいけれど……。
そんなことを考えながら窓の外に目をやっていると、湊が身じろぎする音がした。
目を向けると、ベッドの上で、湊がむっくりと起き上がった。
練は、そっと声をかける。
「湊くん?」
彼がこちらを見た。少し髪が乱れている。
「練くん」
「うん?」
練は立ち上がり、静かにベッドに近づく。湊が言った。
「僕、謝らなくちゃ」
「え?」
「僕、練くんに嘘をついていた。それに、里樹さんたちにも」
寮生たちは、リビングルームのテーブルを囲み、ソファに座っている。
青ざめた顔の湊の横に、心配そうに練が寄り添っている。
里樹は、みんなの前に紅茶のカップを配り、東吾の隣に腰を下ろしながら言った。
「湊くん、みんなに話があるそうだけど、何かな」
練にそのように聞き、こうして集まったのだが、湊はうつむいたまま、なかなか口を開かない。
紅茶にも、テーブルの中央に置いたクッキーにも、誰も手を伸ばさない。
それで、さらに里樹は言う。
「とりあえず、みんな冷めないうちに飲んで」
里樹が率先して紅茶を飲むと、ようやくみんなもカップを手に取る。
湊が、両手でカップを支えるようにしながら一口飲み、ソーサーにカップを戻してから、おもむろに口を開いた。
「ここに来てから、毎日すごく楽しかったです。ホント、こんなに楽しかったの、覚えている限り、初めてだったかも……」
彼の言葉が過去形なことに、里樹はかすかな違和感を覚える。
「里樹さんも東吾さんも練くんも、優しくて、みんなホントに大好き。
でも、僕には、優しくしてもらう資格なんて……」
湊の目から、涙がこぼれた。




