16,風が強い朝
練が小学三年生になったある日、学校から帰ると、母の姿がなかった。
通院日ではないし、外出した様子もなかったので、寝室で休んでいるのだろうと思った。
ときどきそういうことがあるのだ。
それで練は、一人でおやつを食べ、自室で宿題をした。夕方になれば母は起きて来るだろうから、夕飯を作る手伝いをしようと思いながら。
だが、辺りが薄暗くなっても、母は起きて来なかった。もしかして具合が悪いのだろうか。
心配になり、練は様子を見に行くことにした。
「お母さん」
部屋の外から声をかけても返事はない。練は、そっとドアを開ける。
「お母さん、寝てるの?」
薄闇の中、母がベッドに横たわっているのがわかる。練は、静かに近づきながら、さらに声をかける。
「お母さん。お母さん、もうそろそろ……」
ただならぬものを感じ、練は顔を近づける。目を閉じた母は、息をしていなかった。
どうしていいかわからず、転げるように階段を下りて、練は父に電話をかけた。
まだスマートフォンを持っていなかったので、家の電話からかけたのだが、指が震えてなかなかボタンが押せなかった。
「練? 練なのか? どうした?」
父の声を聞いたとたん、涙と嗚咽があふれ出す。
「お、お母さんが……お母さんがあ!」
「お母さんがどうしたんだ? 練、落ち着いて、何があったのか言ってごらん」
泣きじゃくる練から状況を聞き出した父が救急車を呼んだ。練は、母とともに救急車に乗って行くことになった。
そして、救急隊員にあれこれ質問されながら、航がトラックにはねられたときにも同じことがあったのを思い出した。
そのときまですっかり忘れていたけれど、あのときも、練は救急車に同乗して病院に向かったのだ。
練の隣で、湊も彼らを凝視していた。湊もまた、練とは違った意味で打ちのめされているのがわかった。
里樹と東吾に話しかけられなかったら、まだしばらくの間、二人は登山道の途中で立ち尽くしていたかもしれない。
くやしいけれど、東吾に言われた通りだ。
もしも二人だけで来ていたら、どうなっていたことか。いつも優しく見守ってくれる里樹と、少々口は悪いながら、元気づけてくれる東吾が一緒でよかった。
頂上を目指して歩きながら、東吾があれこれと話しかけてくれたおかげで、練は、そして多分湊も、徐々にショックから立ち直ることができたのだった。
天気がよかったこともあって、一年ぶりに見た展望台からの景色は最高だった。
土産物の奥にある、混んだ食堂で四人で食べた天ぷら蕎麦もおいしかった。
湊が、今日の記念に四人でお揃いのものが買いたいと言った。みんなであれこれ物色した結果、小此木山とはまったく関係ない、招き猫のキーホルダーを買った。
東吾は「こんなものどこに付けるんだよ」とぼやいたが、湊は「別に付けなくたって持っているだけでいいんですよ」と言ってニコニコしていた。
翌日は、朝から風が強かった。窓から見える森の木々はしなるように揺れ、ゴーゴーともビュービューともつかない音がしている。
朝食に現れた湊の表情は暗い。先日のこともあり、風の音は過去の辛い記憶を呼び覚ます起因になっているのかもしれないと里樹は思う。
練と東吾も、心配そうに湊の様子をうかがっている。味噌汁を一口すすって、東吾が言った。
「あちち……うまっ。里樹さん、洋食も和食もイケるんっすね」
「ありがとう」
「なんか低気圧が近づいてるとかって、ネットのニュースに書いてあったっすよ」
「それで風が強いんだね」
「でも、頑丈な洋館の中にいると、安心感がありますよね」
練も話に加わる。
「去年の大きな台風のときも、学校は休みになったけど、ここは全然影響なかったし」
湊は、箸を握ったまま、動きが止まっている。心配になって、里樹は声をかけた。
「湊くん、大丈夫?」
ハッとしたように、彼は顔を上げた。
「あっ、はい」
そのとき、庭で何かがぶつかるような、倒れるような音がした。驚いて、ビクンと体をすくめた拍子に、湊は味噌汁の入ったお椀をひっくり返した。
熱い味噌汁が膝の上にこぼれる。
「あっ!」
湊が慌てて立ち上がったのと同時に、椅子が大きな音を立てて倒れた。ハーフパンツの両膝が味噌汁で濡れている。
里樹は立ち上がり、急いで駆け寄る。
「ごめん、脱がせるよ」
呆然と立ち尽くす湊の体を練が支え、里樹がハーフパンツを引き下ろす。むき出しになった細い太ももには、味噌汁を浴びて赤くなっているのとは別に、引きつれたような古い傷跡がある。
東吾が言った。
「すぐに冷たいシャワーで冷やしたほうがいい」
「じゃあ、洗濯室の洗い場で」
「湊、歩けるか?」
だが、顔面蒼白の湊の上半身がぐらりと揺れ、里樹と練は慌てて両側から支えた。
結局、椅子にかけさせ、冷凍庫の氷を持って来て患部を冷やした。
火傷自体はそれほどひどくはないようだったが、気分が悪そうで、湊は椅子にかけているのも辛そうな様子だったので、体を支えながら部屋まで連れて行き、今はベッドで休ませている。




