第36話 運命の日
寒さの中にも春の柔らかさを感じ始めた頃、卒業式が執り行われた。午後からの卒業パーティは在校生も参加できるが、式は卒業生のみが出席する。パーティまでは時間があるため、俺とベアトリクスはヴァイスシュタイン家の応接間で時間を潰していた。俺のよそ行きの服はヴァイスシュタイン家で管理されており、セットの手配もアルベルトがしているため、ここに来ないと着替えられないのだ。
ベアトリクスは緊張の面持ちで座っている。元々のシナリオからは既に大きく外れているが、原作での断罪の日に当たるのは今日だ。パーティが終わるまでは気が抜けないのだろう。
そんな彼女の胸元にはいつも通りガラス細工が光っている。ただ、ペンダントチェーンだけは購入時とは別の高価なものに付け替えられていた。俺はそれを見て数日前のできごとを思い出す。
ベアトリクスは母親に婚約破棄の件を申し出た際、予想通り猛反対にあったらしい。激しい言い争いの末、二人は最終的に淑女らしくもない取っ組み合いの喧嘩に発展した。
そのとき、母親にペンダントのチェーンを引きちぎられた上、踏みつけられたがガラスの部分は無事だったそうだ。後日、彼女から誇らしげにその報告をされたときは心配よりも呆れが勝った。
現在も彼女は母親と冷戦状態にあり、婚約破棄についての賛同は得られていない。
チェーンだけ立派になり、ただの工芸品とは言いづらい逸品に仕上がってしまったペンダントを渋い顔で眺めていたら、ベアトリクスに話しかけられた。
「その服、よく兄上が許しましたね」
彼女は首を傾げている。別に変な格好をしているわけではない。今日、俺はネイビーのスーツを着ている。アルベルトがセシル用にと仕立てさせた服の中で一着目に当たるものだ。あの頃より少し身長が伸びていたので微調整はしたが、新しいものは買っていない。毎度毎度服を買うなんて無駄遣いには慣れたくない。
「『あなたが贈ってくれた服を、一度だけしか着ないなんて勿体ない』って言ったら折れたよ」
「ごちそうさまです」
「うるさいな」
彼女の表情は少し和らいだ。少しは気が楽になったのなら、多少餌にされようがまあ許そう。俺はさらなる餌を求めるベアトリクスの視線を躱して、話題を変える。
「ところで、今日の発表の詳細は教えてくれないのか?」
王子とベアトリクスは今後の関係について、パーティで発表するつもりらしい。この一カ月ちょっと二人は話し合いを重ね、意見をまとめ、方々への説得に奔走した。しかし、ベアトリクスの母親を含め、関係者全てからこの短期間のうちに承諾を得ることは流石に難しかった。なので、大勢の前で発表してしまって既成事実にしてしまうのだという。その強引さにヴィクトル王子らしさを感じて若干不安な気持ちになる。
彼女からは引き続き相談を受けていたものの、ヴィクトルと出した最終的な結論については俺もまだ知らされていなかった。
「驚かせたいので、本番まで待ってください」
「できれば驚くようなことはしてほしくないんだが……」
何の憂いもなく、今日と言う日を過ごしたかったが叶わないらしい。何事もないよう祈ることしかできなかった。
そうこうしている内に時間になり、二人で学園に向かう。
卒業式は恙無く終わったらしい。学園内は特にざわつく様子もなくまばらに学生たちが歩いていた。王子と最終打ち合わせがあるとのことで、ベアトリクスとは途中で別れた。
待ち合わせ場所に向かうと既にアルベルトが待っていた。制服を着替え、パーティ用の服に身を包んでいる。
「ご卒業おめでとうございます」
「ありがとう」
そう挨拶を交わすと彼の胸ポケットに目が留まった。見覚えのあるくたびれた白いハンカチに嫌な予感がする。
「あの、それ、もしかして……」
「ああ、これか?」
俺の視線を追って、アルベルトは胸ポケットに手をやる。そのままハンカチを引き抜き広げると、不格好な刺繍が表れた。
「アル!」
慌てて刺繍が見えないようにハンカチの裾を握り込む。普段使いも勿論やめてほしいが、晴れの舞台で使うなど言語道断だ。
俺が睨め付けると彼は愉快そうにこちらを見下ろして言い放った。
「君が贈ってくれたハンカチを、一度だけしか使わないなんて勿体ない」
「もう何度も使ってるでしょうが!!」
この人のこういう癖だけはどうにかせねばなるまい。してやったりと微笑むアルベルトを見て、俺は改めて思った。
卒業パーティは無駄に長い学園長の挨拶から始まった。どこの世界でも“長”が付く役職の者の話は長いらしい。永遠に続くかと思われた含蓄溢れる素晴らしいご高話が終わると、生徒たちはまばらに拍手を送った。
続いて卒業生代表であるヴィクトルが壇上に姿を現すと、しらけ気味だった会場が一気に騒がしくなった。彼はベアトリクスを伴って登壇したのだ。通常ひとりで行われる挨拶に不仲と噂される婚約者と共に現れたのだから、周囲の困惑は当然のものだった。
しかし、ヴィクトルが一声発するとその場は水を打ったように静かになった。
挨拶の内容は、至極一般的なものだった。ベアトリクスが彼の少し後ろに控えていること以外にイレギュラーはないが、そのたった一点がこの場を異質な空気にしていた。誰も止めに来なかったのを見るに、教師側には根回し済みなのだろうか。
一通り挨拶を終えると、彼はベアトリクスの手を引いて横に立たせた。視線が彼女に集まる。
「極めて私事にはなるが、本日はこの場を借りて発表したいことがひとつある」
ヴィクトルの言葉に、その場の全員が息をつめて続きを待った。
「私たちはご存知の通り婚約関係にあるが、本日よりその関係を解消し、婚約者“候補”というかたちをとることにする」
会場中から驚きや困惑の声が上がる。俺もまた酷く混乱していた。散り散りになりそうな思考をなんとか手繰り寄せ、考えを巡らせる。
王族が婚約者候補を持つのは慣習的に今までなかったはずだ。そもそも、婚約者から候補に立場を変えることは可能なのか? さらに言えばそうする意図も読めない。
会場にいる全員の疑問が膨れ上がりつつある中、今まで黙していたベアトリクスが話し始めた。
「わたくしたちは周りの方々に言われるがまま、ここまで来てしまいました。そこに自分たちの意思はありませんでした。わたくしたちには一度立ち止まってお互いに話し合う時間が必要です。なので、正式な婚約者ではなく婚約者候補へと関係を改めることにしました」
彼女の言葉に思わず眉間に皺が寄る。そんなのアリなのか? いや、アリじゃないから今日まで紛糾していて、最終的に強硬手段に出ざるを得なかったのだろう。どうやら、あの二人は周囲の大人だけでなくもっと大きなものも敵に回す心づもりらしい。
「国の安定のためには、なんでも自由にすべきとは思いません。ただ、個人の意思を完全に無視するようなこともあってはならないと思います」
ベアトリクスがそこまで語り終えると、ヴィクトルが高らかに声を上げた。
「私は今日ここを卒業する。そして今後この国の慣習を見直し、抜本的な刷新を目指すことを宣言する。婚約者候補への移行はその記念すべき第一歩だ」
そう締めくくると会場からは割れんばかりの拍手が沸き起こった。歓声を上げている者もいる。
――若人たちよ、君たちは流されやすすぎる。
頭の中にいる枯れた俺が熱狂する会場を冷ややかに観察していた。今後、二人がぶつかるであろう大きな苦難を思うと、手放しには応援できなかった。
しかし、挨拶を終えたベアトリクスとヴィクトルがお互い笑顔を浮かべて握手するのを見て、まあ、一旦、ハッピーエンドということでいいかという気分にもなった。
断罪は起きなかった。かといって、ふたりが結ばれるわけでもなかった。極端な破滅も奇跡も起きない中途半端で現実的な結末は、彼らが不器用ながらも自らの意志で大きな流れに抗った証明にも感じられた。
誰かに押し付けられたものじゃない、ふたりが必死に考えて捻り出した拙い答えに、俺も称賛の拍手を送った。




