第34話 「あなたに、隣にいてほしい」
今日は、今年一番の冷え込みらしい。寮の自室も室内とは言え少し肌寒い。結露した窓からはっきり確認することは難しいが、空には雲一つないようだ。その殺風景さが余計寒さを助長していた。
そんな冬も深まりきった日に俺は十六歳を迎えた。
最低限のものしかない狭い俺の部屋に、今日はアルベルトが訪れている。出かけるときに迎えに来てもらうことはこれまでもあったが、この部屋自体が目的地になったのは初めてだ。誕生日だからと彼はわざわざお越しになったのだ。
とはいえ、特にすることもないので二人並んでベッドに座って、ぼんやり窓の向こうを眺めている。
「君は最近、上の空だな」
「そうですか?」
正直、自覚はあったが適当に聞き流す。断罪回避作戦について関与できることがたまにベアトリクスの相談に乗ることくらいしかなくなって、若干腑抜け気味なのだ。
「隣に婚約者がいるとは思えない態度だ」
「“候補”です……あ!」
「どうした」
突然大きな声を出した俺をアルベルトは不思議そうに見た。俺はそれに構う余裕がないくらい大事なことを思い出した。
もうすぐ作戦が終わるのだから、アルベルトと今の関係を続ける意味もなくなる。
いつの間にか彼と過ごすことになんの違和感も持たなくなっていた。偽りの関係だった割に、過剰な接触を重ねてしまった感は否めないが、そろそろ解消に向けての相談しておいた方がいい。
ただ、完全に関係を切ってしまうのは彼にとって良いことだと思えない。俺との交流が途絶えてもルカを失った王子ほど荒れはしないと思うが、不必要に傷つけたくない。作戦終了後もベアトリクスとの友人関係は続くだろうし、今後も顔を合わせる可能性のある彼と気まずい状態になるのは避けたいという気持ちもある。
呑気に誕生日のお祝いをしている場合ではなかった。
「あの、」
話を切り出すべく、アルベルトの方を見た。彼はいつも通りの表情だった。出会った頃だったら冷たい鉄仮面としか思えなかったかもしれないが、今なら、その中に穏やかさを見出すことができる。そして、その奥にある熱も。
彼の眼差しに晒されて、俺は婚約者候補の解消について言い出す決心が揺らいだ。代わりに、揺れた心の隙間からここのところ俺を苛んでいる不安が言葉として漏れ出た。
「もしも、もう少しで世界が終わるとわかっていたら何がしたいですか?」
何の脈絡もないそれにアルベルトではなく俺の方が面食らった。しかし、同時に打算的な考えが頭を掠めた。
――そうだ、どうせ世界が終わるのならわざわざ解消の申し出などする必要はない。このままでいいじゃないか。
彼からも、現実からも目を逸らして、疚しいことを考える俺をアルベルトはまっすぐに見据える。突拍子もない質問にも彼は鷹揚に答えた。
「そんな結末は二人で変えたらいい。世界を変えられると私に教えたのは君だよ」
思わずアルベルトのほうを見ると視線がぶつかった。俺は彼の目を通して揺れる瞳を幻視する。この寄る辺ない眼差しは、人生を諦めてしまっていたアルベルトの瞳……ではなかった。
――ぼくをみて。
いつかの夢で聞いたか細い声が蘇る。その声の持ち主の滲んだ瞳の色を、俺はとうとう思い出した。忘れてしまっていたそれは、琥珀色だ。
あれは、誰も自分を見てくれないと泣いていた、十歳のセシルの瞳だったのだ。
アルベルトを助けたくなったのは、ただの同情やお節介ではなかった。彼を孤独から救い上げることで、彼を通して、俺は過去の自分の傷を癒していたんだ。作戦に必要だったから、彼に必要とされたから、そばにいるんじゃない。俺には彼が必要で、そして彼に必要とされたくて、そばにいたいんだ。
それが、ずっとこれまで目を逸らし続けていた真実だった。
世界が終わるかもしれないという不安が消えないのも、婚約候補の解消を言い出せなかったのも、俺がこれからもこの世界でアルベルトと一緒にいたいと思い始めているからに他ならなかった。
「セシルは?」
「え?」
「もう少しで世界が終わるなら何がしたい?」
頬に彼の手が添えられて、その現実的な感触に俺は思考の沼から引きずり出された。
偽りから始まった関係だけど、隠していることもまだあるけれど、それでもいいとあなたが言ってくれたから。今、ある、そのままの自分で応えたい。
「あなたに、隣にいてほしい」
絞り出した声は震えていた。その言葉が空気に溶け込むよりも早く、アルベルトは俺を抱き寄せた。
彼の鼓動が間近に聞こえる。その脈の速さと確かさに、いっそ苦しいくらいの安堵が込み上げる。冷えた部屋の中で唯一、彼だけが温かかった。何故だか、それだけのことで涙が出そうになった。どうして、こんなに温かい血の通った人間を前にして、ただのゲームのキャラクターに過ぎないなどと思えるだろうか。
彼の背に手を回し額をアルベルトの肩に押し付けた。俺のうなじと腰にあった彼の手が一瞬強張ったが、その後、さらに強く抱きしめられた。
「今してほしいとは言ってないですよ」
落ち着きを取り戻してきたところで、気まずくなってつい憎まれ口を叩く。彼の胸に顔を埋めたままだったので声がくぐもってしまい、まるで格好がつかない。
「これくらいのことはいつでも叶えてやれる」
耳元で低く甘い声で囁かれて、取り戻したはずの落ち着きが霧散した。一向に定まろうとしない感情に逆に開き直り始めた俺は質問を重ねることにした。
「誕生日だからもっと欲張ってもいいですか?」
「なんだ?」
こんなに非現実的で恥ずかしいことは今じゃないと言えそうにない。俺は意を決して少し体を離し彼を見上げる。
「世界が終わらなくてもずっとそばにいてください」
湖畔を訪れたあの日、アルベルトに伝えられなかった言葉。彼が今日まで待ってくれていた言葉。
心の奥底にあった本心を俺は遂に彼に明け渡した。
「当然だ」
アルベルトはそう言うと、先ほどよりもきつく、息が詰まるくらい手加減なしに俺を抱きしめた。その息苦しさすら嬉しく思うのだから、本当に俺はどうかしてしまったようだ。
「生まれてきてくれてありがとう」
アルベルトの小さく、しかし切実な響きを持った呟きが俺の心の隙間を埋める。あの頃の小さなセシルが笑ってくれたのが見えた気がした。
この日ようやく俺たちは、本当の婚約者候補となったのだった。




