第33話 ノートの空白
前回の作戦会議の後、ベアトリクスはヴィクトルとの面会の予定をなんとか取り付けた。そして今日、俺は彼女に付き添って王宮にやって来ている。
応接間のような部屋に案内されたが、おそらく王族に近しい人間しか通されないような場所なのだろう。その部屋は広間などがある場所と比べてかなり奥まったところにあった。
俺はもちろんそんなところに来るのは初めてなので、いやに緊張を煽られた。ただでさえ、ゲームのシナリオに頼らずひとりの人間としてのヴィクトルと向き合わねばならないのだ。この場に慣れているはずのベアトリクスも落ち着かない様子で指を組み替えている。彼女は今日もガラス細工のペンダントをしていた。王子に会うのに相応しいとは言えなかったが、もはやお守りのようなものなのだろう。
随分待たされて、もはや来ないのではないかと思われた頃にヴィクトルが部屋に入ってきた。彼はまるで影をまとっているかのようで足取りは重い。いつもの尊大な態度を取ることもできていない。彼は俺を一瞥すると、片眉を上げて鼻で笑った。
「誰かのおもりがないと言いたいことも言えないのか?」
「はい、そうです」
ベアトリクスにあっさり肯定され、彼は不快そうに顔を歪めた。そのままソファにどかりと腰を下ろす。彼女のほうを見ようともしない。
「どこからかルカのことを聞きつけたのか? 今なら取り入ることができるとでも? 相変わらず卑しいやつだな」
憔悴しきっていると聞いていた割には矢継ぎ早に嫌味を言ってくる。ベアトリクスが会いに来たと言う事実が彼の歪んだ自尊心を多少は慰めたのだろうか。一方のベアトリクスは部屋の隅に視線を走らせていた。そこには数人の近習が控えている。
「いえ、本日は謝罪とお願いに参りました。……あの、人払いをお願いしたいのですが」
王子のこめかみがピクリと動く。彼は苛立ちながらも手をさっと上げると、近習たちは全員部屋を辞した。彼女の言うことを聞く屈辱よりも、話の内容への関心が勝ったらしい。
「謝罪? 何の?」
「殿下に対する態度についてです」
ヴィクトルはつまらなそうにベアトリクスのほうを見やったが、すぐ目を逸らした。
「わたくしは、母から王妃になる以外にお前に価値はないと言われ育ってきました。だから、あなたに好かれるために必死になりました。そこにあなたを思いやる気持ちはなかった。あなたのことを見る余裕などありませんでした」
「……」
アルベルトはヴィクトルに対してある種の共感のようなものを抱いたと言っていたが、ベアトリクスとヴィクトルもまた合わせ鏡のような関係だ。相手を前にすると嫌でも自分の立場を突き付けられるから、お互い向き合うのを厭うていたのかもしれない。
「ルカが現れて、自分の立場を失うと思い、焦り、愚かなことをしました。本当に……愚かなことをしました。それでもわたくしを助けてくれる方がいた。自分の弱さと向き合うチャンスをくれた方がいた」
そう話す彼女と目が合った。正直、買い被りすぎだと思うが、見守ると約束したので反論はしないでおく。
「過去のことを許していただきたいわけではありません。殿下がわたくしを憎んでいるのは承知しています。それでもわたくしは、婚約者としてではなくひとりの人間としてゼロからあなたと向き合いたいと思っています」
彼女の胸元のペンダントが豪華なシャンデリアの光を受けて、一瞬、強くきらめいた。
「殿下、わたくしは本日、婚約解消の交渉に参りました」
彼女の言葉が終わるや否やヴィクトルは手元のカップを薙ぎ払った。硬い床に叩きつけられたカップは派手な音を立てて割れた。ヴィクトルの叫び声が重なる。
「お前も私を愚弄するのか!!!」
それは怒り、というよりは混乱によって、思わず口をついて出た言葉のように感じられた。その証拠に叫んだあと我に返った彼は、己が引き起こした部屋の惨状を見て固まった。
先程の近習たちが騒ぎを聞きつけて部屋に入ってくる。部屋の状況を見て特に驚いた様子もなく手早く片付け始めた。こういう状況には慣れているらしい。破片を回収すると、呆然自失に陥っているヴィクトルに声を掛けることもなく無言で立ち去っていった。
長い沈黙の後、彼はほとんど独り言のように声を漏らした。
「利用価値のなくなった道具は捨てるのか? お前も私を置いていくのか?」
彼はこちらを見ていない。
「……違う、私はわかっている、」
「私にはルカしかいなかった、ルカしかいなかったのに、ルカだけが私を人間扱いしてくれたのに、」
「私はルカを利用していた、ルカの意思を無視して側に縛り付けようとしたんだ、」
「道具扱いしていたのは、私のほうだったんだ」
一方的に言い募るとヴィクトルは顔を覆った。彼は愚鈍ではない。自分の感情にもルカの気持ちにも気付いていたんだろう。それでも見て見ぬふりを続けていた。愚鈍ではないからこそ、そのことが彼をより追い詰めた。
「婚約解消でもなんでもするがいい。私のことは放っておいてくれ」
彼はひとりで結論付けて黙ってしまった。しかし、自分自身のことを諦めてしまったヴィクトルを、ベアトリクスは諦めなかった。
「殿下、人は変わります」
彼女は俯くヴィクトルに語り掛けた。その声はどこか彼女自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「ひとりで答えを出して、見切りをつけようとしないでください」
「私は変われないんだ。お前たちとは違う」
「じゃあどうしてルカの手を離せたんですか? 前までのあなただったら、他人を思いやって自分が引くなんてことできなかったはずです」
ヴィクトルの弱々しい反論にベアトリクスは穏やかだが揺るがぬ強さで以て言い返した。彼は顔を上げ、ようやく彼女のことをまっすぐに見た。
……雰囲気に流されかけたが、よく考えたら王子に向かって割と失礼なことを言っていないか? 変なタイミングで冷静になった俺を置いて、ベアトリクスは王子の目を見つめ返して言葉を重ねる。
「わたくしはあなたを置いていくんじゃない。一緒に前に進みたいんです。婚約者という役割を離れて、あなた自身と向き合いたいんです、だから、」
「帰ってくれ」
「話を聞いてください!」
「ひとりにしてくれないか」
ヴィクトルはそう言うとベアトリクスから視線を外して再び俯いた。こちらから表情を窺うのは難しいが、どうやらこれ以上の対話は望めそうもないようだ。
「……失礼いたします」
微動だにしなくなった王子を置いて、俺たちは部屋を後にした。
「どうしましょう、これって失敗ですか?」
「いや、大丈夫じゃないか?」
「でも、追い出されましたよ!?」
王宮の長い廊下を歩きながら、小声で話す。ベアトリクスの慌てぶりを見ていると、先程まで冷静にヴィクトルと対峙していた人間と同一人物とは思えなかった。
彼女は説得に必死で気付かなかったようだが、視線を逸らす直前のヴィクトルの目の端には光るものがあった。彼女の言葉は確かに彼に響いたはずだ。俺はほとんど確信していた。
俺の出る幕もなく、彼女はひとりでやりきったのだ。
婚約解消の交渉から二週間ほど経った。あっという間に過ぎる時間に怖ろしさすら感じる。
俺は特にやることもなく寮の自室の窓から外を眺めていた。霧雨が降っていて遠くまでは見渡せない。冷え切った窓ガラスに額を当てる。その冷たさで思考が強制的にクリアになり、俺は数日前のことを思い出した。
王宮への訪問から数日後、ヴィクトルからベアトリクスに呼び出しがあった。彼から話し合いの場を設けるのは初めてのことだった。今度は彼女一人で彼の元へ向かった。
そこで彼らは今後について協議した結果、卒業までに一区切りつけるため二人で動き出すこととなったらしい。話し合いの後、ベアトリクスが俺に笑顔で顛末を知らせてくれたのだ。
そのときの憑き物が落ちたような彼女の表情を思い出して、この物語が完全に自分の手から離れたのだという実感が改めて湧き上がってくる。達成感と寂寥感が同時に襲いかかってきた。
あとは、エンディングを待つのみだ。
窓に背を向けると、役割を終えてしばらく机に放置されたままだったノートが視界に映った。なんとなしにページをめくる。イベントを時系列順に並べたメモ書きは今年の三月で途切れている。ノートの空白を見て、ぼやけていた不安が急に輪郭を持ち始めた。
――最後のイベントが終わってもこの世界は続くのだろうか。
ここがゲームの世界だったとしても、急に跡形もなく消えるなんてことはないとは思う。そもそもシナリオ通りに進まなかったのだから、ゲームに酷似した別の世界なのかもしれない。
そんなこと考えたって答えなんて確かめようもない。
断罪回避という明確な課題がなくなって、いつの頃からか湧いていたこの小さな疑念を無視できなくなってしまった。
それでも、あと二カ月、俺にできるのは待つことだけだった。




