第31話 私室
年の瀬も迫った寒い日。その日、今年初めて雪が降った。薄く地面を覆う雪に足を取られる人を横目に俺はヴァイスシュタイン邸にやってきた。目的は、作戦会議、ではなく、アルベルトへの弁解だった。彼をなおざりにして作戦を優先したことについて、流石にお冠であろうアルベルトに許しを請うために参上した次第である。
例の如く応接間へ案内されると思ったが、今日はいつもと方向が違う。使用人に知らない扉の前まで連れてこられ、アルベルトが中で待っていること以外に説明もなく置き去りにされた。不思議に思いつつノックすると、入れ、とアルベルトの声が聞こえた。扉を開けると、ソファに座っているアルベルトが視界に映った。ソファの他にあるのはデスク、そして奥の方に天蓋付きのベッド。これは……。
ドアノブを掴んだまま固まっていると、アルベルトがこちらに声を掛けてきた。
「突っ立ってないで座ったらどうだ?」
彼の声に思わず、ドアノブから手を離す。扉が閉まる音が重く肩にのしかかるように感じた。
これは、たぶんアルベルトの私室だ。急にプライベートな空間に放り込まれて俺は緊張でぎこちなくなりながら彼の向かいにあるソファに座った。その様子を見届けて、アルベルトは手ずから俺にお茶を入れた。
何故だかこめかみがキシキシする。不測の事態に脳が処理限界を超えて身体に異様な影響を及ぼしているらしい。
お茶を飲むこともできず、掠れた声で尋ねる。
「なんで……、いつもの部屋じゃないんですか?」
「わからないか?」
なんだ? 応接間だと不都合なことがあるのか……? 必死に思考を巡らそうとするがうまくいかず、不穏な発想が湧き出そうになるのを無理やり抑えつけた。アルベルトの顔を盗み見る。無表情だ。機嫌がいいのか、悪いのかさえわからない。
「すみません……」
何も思い浮かばず、謝罪することしかできなかった。もう煮るなり焼くなり好きにすればいいさ。今日俺はここで死ぬんだ。
「何か失礼なことを考えていないか?」
「滅相もござりませぬ」
「……」
沈黙。束の間気まずい空気が流れるが、アルベルトの溜息がそれを破った。
「君が私に会いに来てくれたと思ったから」
「え?」
「違ったのか?」
そういえば以前俺の部屋にアルベルトを案内したとき、そんなやりとりがあった。アルベルトの自室について、「君が私に会いに来てくれるのだったらいくらでもお見せしよう」と確かに彼は言っていた。
「いえ、違いありません。あなたに会いに来ました」
俺の返事を聞いて、ふん、とアルベルトは満足そうに笑った。ようやく息を吐くことができた俺は礼を言ってお茶に口を付けた。
「それで? 君はどうやって私の機嫌をとるつもりなんだ?」
ソファの肘置きに頬杖をついて、アルベルトはこちらを見やりながら言い放った。先程のやりとりだけでは機嫌は直らなかったらしい。予定通り、釈明させてもらおう。
「パーティでの態度は謝罪します。あのとき、ヴィクトル殿下が予期せぬ動きをされたのが気にかかって」
「言い訳は聞きたくないな。私はどうやって機嫌をとるのか、と聞いたんだ」
彼はそう言うと立ち上がり、俺の真横に腰掛けた。目と目が合う。近ぇ。怖ぇ。美形の圧に屈して目を瞑る。敵を前に自ら視界を塞ぐなど自殺行為でしかないが、もう祈ることしかできない。今度こそ詰んだ。さようなら、世界。もし、また生まれ変わるなら次はもっとイージーな設定にしてほしい。
来世に希望を託しながら、ベアトリクスの言う通り今世の命はおとなしくアルベルトに委ねることにした。
「や、殺るならひと思いにお願いします」
「……」
アルベルトは無言でセシルの首に触れた。肌が粟立つ。急所に触れられ、恐怖が具体的なかたちとなって迫ったことで、耐え切れず目を見開く。アルベルトの顔が眼前にあった。
「あ、あの、できれば、なるべく苦しまない方法でお願いしたいのですが」
アルベルトは一瞬、毒気の抜かれたような表情をして、その後小さく溜息をついた。そのまま更に顔を近付けてきたので思わず再び目を瞑る。アルベルトの指が首筋を辿って顎を掬い上げた。僅かに間をおいて唇に何かが触れる。
「君は、私にもう少し感謝したほうがいい」
そう囁くと彼は体を離した。助かった。体からどっと力が抜ける。
命の危機とそれを脱した解放感、大きな落差のある感情を連続で浴びせられ、脳味噌が完全に麻痺した俺は妙にハイな気持ちになっていた。許してもらえるのならキスのひとつやふたつ、安いもんだぜ。
そういや、ご機嫌取りのついでにアルベルトに訊きたいことがあったんだった。俺は調子に乗ったまま彼に尋ねる。
「ありがとうございます。ところで、その後、殿下の様子はいかがですか?」
「……君は機嫌をとりに来たのか、悪くさせに来たのか、どっちなんだ?」
彼は大きな溜息をついた。彼の度重なる溜息でこの部屋の二酸化炭素濃度は他よりも高まっているに違いない。
「キスしたら教えてくださいますか?」
そう聞くと、目にも留まらぬ速さで手が伸びてきて首をつかまれた。そのまま緩く力をこめられる。
「まだ足りないらしいな」
「じょう゛だん゛です」
やっぱり今日俺は殺されるのかもしれない。
アルベルト様はそのご寛大な御心により、わたくしめをお許しになり、恐れ多くも、ヴィクトル第二王子殿下のご様子について、お話しあそばれた。
「閉じこもり気味だったのが、パーティの後はより酷くなっている。以前は周囲に当たり散らすこともあったが、ここのところすっかり憔悴しきった様子でこちらの声にもあまり反応しない。あの状態だとまともに話をするのも難しいだろうな」
そう言うと、彼は冷めきったお茶を飲んだ。伏せた目から読み取れるのは哀れみというには情がありすぎるもののように感じた。
「今更ですが、アルベルト様は殿下とどのようなご関係なんですか?」
「ただの側近候補だよ」
「……それだけには思えないのですが」
アルベルトは目を逸らした。
「そういう観察眼は別のところに使ってくれないか?」
彼は観念したように語り出した。
アルベルトと王子が出会ったのは六歳の頃。王子の側近候補を選定するために同年代の子供数名が宮殿に集められた。その内の一人がアルベルトであり、二人はそこで初めて顔を合わせたそうだ。
「殿下は気を引こうと懸命に話しかける者をつまらなそうに見ていた。そのとき私は思ったんだ、同じだと」
「同じ?」
俺が聞き返すと、アルベルトは眉間に皺を寄せた。どう言ったものか悩んでいるようだ。
「当時は殿下の事情も分かっていなかった上に、うまく言語化もできなかったが。おそらく直感的に感じたんだと思う。この方も自分の人生に決定権がないことを悟っているんだと」
「理解者だったということですか?」
「そんなに綺麗なものではないが、共感できる部分があるとお互いに察していたとは思う」
彼はすっと遠くを見るような目つきをした。
「殿下は王位など興味ない。母親である王妃陛下のプライドと、利権が絡む大人たちの思惑の所為で、馬鹿げた跡継ぎ争いは続いている」
ヴィクトルの兄である第一王子は側室の子だ。正室としては実子のヴィクトル以外が王になるのは許しがたいことなのかもしれない。
「別になりたくもない王になるために教育を受けさせられ、特に好きでもない相手と婚約させられる。殿下は周りにいる者のことを皆、たぶん私も含め、自分を利用するために側にいると決めつけている」
王子の話をするアルベルトは珍しく自虐的に見えた。俺は口を挟むこともできず黙って聞いていた。
「殿下は傀儡なんだ。周囲の人間にとっても、そして殿下自身にとっても」
話を締めくくったアルベルトの瞳に無力感が滲む。それは久しく見ていなかったものだった。
「それで? あまり話したくもないことを話して、私は機嫌が悪くなってしまったが?」
「え?」
「機嫌の取り方は忘れてしまったのか?」
王子と作戦のことについて本格的な思考に入ろうとしていた俺は彼の言葉に虚を突かれた。
話を聞いているうちにすっかり平常心に戻っていた俺は先程のイカれた勢いを失っていた。
アルベルトは戸惑う俺を見て、どうせできもしないことを言ったのだろう、とばかりに余裕の表情を浮かべている。こちらを侮るような態度を取られてつい反抗心に火が灯る。そう簡単に大人を舐められては困る。
俺はソファに膝立ちになって、アルベルトの肩に手を置き彼を見下ろす。目を丸くした様子に胸がすく思いだ。
気分が良くなった俺はそのまま彼に口付けた。次の瞬間に見えたアルベルトの表情には余裕など一片も残っていなかった。




