第18話 湖畔
俺は明日テオドール領を発つアルベルトを連れて湖畔を訪れていた。街へは案内したが、湖の方はまだだったので帰る前に見て行ってほしかったのだ。
今日はここ数日の中でも特に暑い日で、浅瀬で水浴びをしている者はそれなりにいたが、湖のほとりを歩く者はまばらだった。
俺とアルベルトも最初は湖沿いを歩いていたが、暑さに負けて涼し気な水際の方へと誘われた。
俺はさっさと靴を脱いで裸足になった。ズボンも膝くらいまで捲ったが、最悪濡れてもすぐ乾くだろうという気持ちでバシャバシャと浅瀬を進んでいく。歩みを阻む水の抵抗すら愉快に感じ、足を蹴り上げると水飛沫が派手に上がった。ここのところ抱えていた悩みも霧散したような気分になった。
もういっそ服のまま全身浸かってやりたくなったが、そこまで童心に戻ると水遊びだけで今日が終わってしまいそうなので踏みとどまる。
膝くらいの深さまで来たところで後ろを振り返った。アルベルトは波打ち際で立ち尽くしている。
「入らないんですか!」
声を掛けても彼は動かない。靴も履いたままだ。お坊ちゃんは水遊びも知らないらしい。仕方がないなと思いつつ俺は彼のいる方へ引き返した。
「靴、脱いでください」
「いや、私はいい」
「脱いでください」
俺の押しつけがましい要求に折れたのか、彼はようやく靴を脱いだ。ズボンも捲らせたところで、手を引いて湖へ連行する。虚を突かれたような顔をする彼が珍しくてつい声を上げて笑ってしまった。
「思ったより冷たいでしょう?」
「……そうだな」
彼は眩しそうに目を細めて応えた。
足元は冷えたが、日光に晒された上半身は汗だくだった。俺たちは日差しに耐え切れなくなって結局は木陰に逃げ込んだ。直射日光は遮られたが、湖面に反射した光は変わらず目に飛び込んでくる。どうやら太陽から完全に逃れることはできないらしい。
木の根元に座って、しばらく無言で景色を眺める。先程まで湖に浸かっていた足を風が撫ぜた。少し下がった体温が今日の本当の目的を俺に思い出させた。
――どう切り出すべきか。
聞きたいことはあるのだが、うまくまとまらない。考えあぐねていると、アルベルトが先に口を開いた。
「聞いたと思うが、父が契約書に署名したら婚約者候補の件も正式に認められることになる」
彼はこちらを見ずに湖の方を見ながらこともなげに言った。
「なるべく早く書類を送るよう努力するよ」
「どうして」
つい言葉が口をついて出たが、それ以上続けられなかった。声は情けないくらい掠れていた。アルベルトは視線をこちらに向けた。その冷たい双眸の奥には、いつの間にか熱が灯るようになっていた。それにうっすら気付きつつも目を逸らし続けていたが、いい加減対峙しなければならない。
「君が現れてから何もかも変わった」
彼の声はいつも通り芯を失わない。
「君がいなければ、妹の件はあのままだったし、父に意見することもなかっただろう」
「それは……、タイミングの問題です。私がいなくてもいずれは同じようなことは起きていたと思います」
アルベルトのために始めたことではない。作戦のために彼を利用したのだという事実に心がじくじくと痛む。
「目的もなく街を歩いて買い食いすることも、夏の湖の心地よさも知らないままだっただろう」
「……」
「人は変われると、君が教えた。今の私を、君が見つけたんだ」
嘘から始まった関係だったが、これは紛れもなく彼の本心なのだろう。だからこそ、危うい。人生のうち分岐点などいくつもあるのだ。そのうちのひとつに過ぎない出来事に今後一生囚われるのは健全だとはどうしても思えなかった。
「熱の話、君の父上と兄上からも聞いたよ」
体が急速に強張って思考が止まった。真っ白になった頭の中に葉擦れの音がやけに大きく響いて、再起動の邪魔をする。
「今だから白状するが、私はずっと嘘だと思っていた。高熱で生死を彷徨い、それを人生が変わるほどの体験だったと感じる者が偶然に都合よく出会うことなどあるだろうか、と疑っていた。嘘ではないとわかって正直に言うと安堵した」
そこでアルベルトは小さく息をついた。
彼の真摯な言葉を聞いて、俺の軋む心臓が冷たく濁った血液を全身に送り込んだ。指先が冷えて、思考は鈍いまま機能しない。
彼の信頼は俺の脆い嘘に支えられている。とてもじゃないが、こんな俺では彼の気持ちに応えることはできない。
口を閉ざした俺に構わず、彼は続ける。
「だが、同時に嘘でも構わないと思っていた自分がいたことにも気付いた。嘘を許せると思ったのは初めてだった」
アルベルトはこちらをまっすぐに射貫いてそう言った。彼の声は俺の汚い罪悪感まみれの心にも静かに、しかし確実に伝わった。
「君はまだ何かを隠している。だが、それでもいい」
アルベルトの熱く大きな手が俺の冷えた手を強く掴む。それはまるで、これまでのような言い訳や誤魔化しで逃れることは許さないと言っているかのようだった。
先程までうるさいくらいだった風の音がひとつも聞こえてこない。彼の言葉だけが正しく耳に届く。
「私は君を好きになってしまったんだ」
困ったように彼は笑った。
何も応えられない俺を気にすることなくアルベルトはそのまま立ち上がった。
「君の返事はまだ聞きたくない。なにかと理由を付けて断るつもりだろう」
勢いよく手を引かれて俺も慌てて立ち上がったが、バランスを崩した。転ぶ前に彼のもう一方の手で腰を支えられ、そのまま流れるように頬にキスされた。心臓が一拍止まる。あの時のような寸止めではない。確実に触れた感触を認識した瞬間、一気に鼓動と思考が戻って来た。
「ちょっと……!」
流石に我に返った俺は、許可なく触れられたことに文句を言おうとしたが彼に遮られる。
「そばにいてあげたい、と言ったのも嘘なのか?」
俺を見つめる目はこちらを煽るように細められている。
「急がないから、私のことを考えてほしい」
そう言うと彼は呆気なく俺の体を離した。それでも、彼に触れられて伝わった熱はいつまでも俺の皮膚に居座り続けた。
その日の夕方、アルベルトはセシルの次兄であるブルーノに卒なく挨拶し、翌朝早くにはテオドール領を出発した。風のように去っていったアルベルトを俺と共に見送ったブルーノは困惑した様子だった。
「セシルは何か、とんでもないのに目を付けられたのか?」
そう呟く兄に俺は心の中で、その野生の勘はおそらく当たっている、と力なく返す。
「折角、弟が欲しくば俺を倒してみろ! ってやるチャンスだと思ったんだけどな。そんな時間もなかったな」
「それは、自分の子供のときに取っておいて……」
精神的・政治的な障壁が既にあるんだから、物理的な壁を増やさないでほしい。
「いやあ、しかしあのちっこい悪戯坊主だったセシルがなあ……」
「昔の話はやめてよ」
忙しい家族の気を引くために悪戯を繰り返して迷惑を掛けていた幼少期のことを、ブルーノは度々いじってくるのだ。正確には“俺”ではないからやめてほしい。
「侯爵家に嫁ぐことになるとはなあ……」
「まだ決まったわけじゃないから。正式な候補にすらなってないから」
「いや、決まってる。奴の目を見りゃわかる」
次兄は絶対的な確信を持っているかのように言い切った。この短時間の顔合わせで何を嗅ぎつけたんだろう。
「まあ、ヤバくなったら匿ってやるよ」
「……ヤバくなるの?」
「お前次第だな」
そう言うとブルーノは豪快に笑った。
ヴァイスシュタイン家から文書が届いたのは、休暇も後半に差し掛かり俺もそろそろ学園へ戻ろうかと思っていた頃だった。アルベルトは宣言通り父親の説得に成功したようだ。一体どんな手を使ったというのか。俺には全く見当がつかなかった。
一通り書類に目を通したギルバートは、溜息をついて頭を搔きむしった。不備は見つからなかったようだ。彼は胡乱な目で俺を見て言う。
「お前、本当に何したんだ?」
「特には……」
口籠る俺を見てさらに溜息を重ねながら、手紙を一通差し出してきた。送られてきた文書の中にはアルベルトから俺に宛てたものも同封されていたようだ。
自室に戻り、内容を確認する。挨拶などは特になく用件のみが書かれていた。来月のアルベルトの成人祝いを兼ねた誕生会で公式に発表するので覚悟しておくように、と。
向き合うと決心したはずなのに、こうも包み隠さず現実を突き付けられると逃げ出したくもなる。
俺は思わずリセットボタンを探したが、モブにその権利は与えられていないようだった。
今回で第二章終了です。第三章も引き続きよろしくお願いいたします。これまで通り毎日20:00更新です。
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