第15話 本丸
アルベルトがテオドール領に来てもうすぐで一週間が経とうとしていた。
母マルタはよそ行きの堅苦しい態度を続けることに疲れたのか、アルベルトへの対応も偉い人ではなくただの息子の友達に対するものに変わってきていた。
「そのうち帰ってくるだろうし、先に食べ始めちゃいましょうか」
空きがひとつある夕食の席でマルタが言う。ギルバートは仕事で帰りが遅くなっているようだ。
「そうしよう」
父も同意すると食事が運ばれてくる。全員揃ってから食べ始めるのがマナーだろうが、残念ながらテオドール家にそれは適用されていなかった。
ギルバートが仕事で帰宅が遅くなるのはままあり、当初は待っていたのだが効率を何より求める兄は家族にも使用人にも自分を待たないようにと指示した。故に、家族が先に食べ始めるだけでなく、使用人たちも空いている兄の席に次々と配膳していく。
それを見て流石のアルベルトも面食らった様子で固まっていた。
「すみません、慣れてください」
「あ、ああ」
声を掛けると、アルベルトは我に返ったようだ。そんなに驚くことだろうか。アルベルトの父も仕事人間のようだし、食事を共にできない日もあると思っていたのだが。上流貴族らしくマナーに厳しくて、多忙でもそのあたりは厳格に守っているのかもしれない。
「そういえば、今日アンヌに会ったよ」
例の噂には触れず、彼女から兄への愚痴を父に報告する。
「あいつも相変わらず融通が利かないな。言っておくよ」
父は苦笑まじりに応えた。彼は実権をギルバートに譲ってしまったが、領の運営を完全に手放しているわけではない。兄は、筋は通るが情が通っていない対応をしがちである。今日の話は愚痴にすらならないかわいらしいものだったが、たまに大きな諍いの種になりかねないものもあるため、その辺りのフォローは父が行なっているのだ。
食事も後半に差し掛かったところで、ようやくギルバートが帰宅した。
「遅いわよ」
「ああ」
「ああ、じゃないわよ」
母の注意を軽く受け流して、彼は席に着くや否や俺の方を向いた。
「明日、時間を取る。朝食後二人で応接間に来るように」
一方的に告げるとこちらの返事を遮るように食事を開始した。
どうやら、ついに本丸に攻め込むときがきたらしい。舌戦の予感に体が震える。これは武者震いだ。決してビビっているわけではない。
アルベルトの方を一顧だにしない兄の頑なな様子からも、牙城を崩すのが困難であることは嫌でも伝わって来た。
翌日、俺とアルベルトは指示通り応接間に向かった。扉を開けると既にギルバートの姿があった。
「お待たせしました」
「待っていない」
ギルバートはそっけなく返すと、俺たちが座った瞬間に本題へ切り込んだ。
「私は今回の件には反対だ。理由は三つある。一つ目は、身分差の問題だ。テオドール家は無駄に歴史と伯爵位はあるが、実態が伴っていない。この一週間でわかっただろうが、うちと侯爵家だとまるで生活環境が違う。侯爵子息は、当然、セシルが侯爵家の生活に合わせるものだとお考えかもしれないが、愚弟にそういう生活ができるとは思えない。それに、家同士に大きな格差があることで、いらぬトラブルを呼び込みかねない。婚約者候補については両家が対等の立場で定めるとされているが、実態としては家格が下の方の立場が弱いことには変わりない」
彼は淡々と教科書を読み上げるように、理由を述べていく。こちらに相槌を打たせる隙さえ与えない。
「二つ目は、信頼性についてだ。今回、家を通しての正式な連絡もなく、噂のみが先に届いた。その後、確かに侯爵子息の手紙も受け取ったし、今回の滞在に先駆けてヴァイスシュタイン侯爵からの手紙も受け取った。ただ、こちらからセシルに連絡をとらなければ、現時点では知らせるつもりもなかったのではないかと疑っている。先に既成事実をつくろうとでも思えるような動きに裏があると思うのは当然のことだろう」
ここまで言うと、彼は一息漏らした。ただでさえ深い眉間の皺がさらに深くなる。
「最後に、これは事実に基づくものではなく勘でしかないが……」
ギルバートはここに来て初めて言い淀んだ。
「セシルが、そういった感情を侯爵子息に向けているとは思えない。ただ、一方的な感情に巻き込まれているとも思えなかった。その辺りについて納得がいく説明がない限りは賛成できない。以上だ。反論があれば聞かせてもらおう」
兄はアルベルトではなく、俺の方だけ向いて言った。予想通りではあるが強硬姿勢であることを隠そうともしない。アルベルトはそんなギルバートの態度を意に介さず口を開いた。
「僭越ながら発言させていただきますが」
「先に言っておくが、遠まわしで無駄な話はしたくありません。簡潔にお願いいたします」
アルベルトの目も見ず、ギルバートが言葉を遮る。マナーもへったくれもあったもんじゃない。
「一つ目についてですが、確かにここでの生活が自分のそれとは違うことは痛感いたしました。ただ、一方的にこちらの価値観を押し付けるつもりはありません。これまで見てきたものは違っても、これから見ていくものは同じなのだから擦り合わせていくことは可能でしょう。何よりこの一週間、私は何の不自由もなくここに滞在できています。そのうち音を上げて帰るとでも思っていたのかもしれませんが」
アルベルトはまっすぐギルバートの方を向いている。両者ともに表情に動きはない。
「二つ目ですが、これに関しては完全にこちらの手落ちです。改めて非礼をお詫びいたします。私たちの関係について内密に相談していた者がいたのですが、そこから情報が漏れたようです。家の者と話し合う前のことでしたので、父に同意を得てそちらに正式にご連絡するよりも先に噂が届いてしまったというのが事の経緯です。発端となった者とは既に縁を切りましたが、今後そのようなことのないように、より徹底する所存です」
急にものすごい嘘が出てきたので、俺は思わず目を見開きそうになり瞼をひくつかせる。相談相手なんていない。しかも、その嘘に続く内容が取引先に対してミスがあった際の謝罪を思い起こさせたので、違う意味でも肝が冷えそうになった。
「突然、縁もゆかりもない人間が婚約者候補に名乗りを上げても信用できないのは当然のことでしょう。必要であれば、父の名で一筆書かせることは可能です。婚約者候補の解消はいつでも可能である、当家から一方的に解消することはない、仮に解消することになってもテオドール家に対して不都合になるようなことは行なわない、テオドール家の内政に干渉しないという内容でいかがでしょう。もちろん条項を追加していただいても構いません」
兄はそれを聞いて怪訝そうに首を少し傾げて、今日初めてアルベルトの方へ視線を向けた。
確かに口先だけのやりとりよりは紙ベースの契約の方が兄の信用は得られるだろう。しかし、兄はその貴族らしくないやり方に、そこまでするか? とでも言いたげな表情を浮かべている。
「三つ目についてですが、私とセシル様の思いが同じでないことはわかっています。しかし、例え同じものが返って来なかったとしても、今後もずっと、いや、今以上に思いを掛け続ける覚悟が私にはあります」
先程までの論理的な説明とは打って変わっての、あまりに真摯な愛の告白としか受け取れない内容に兄弟そろって面食らう。いや、俺は食らっちゃいけない立場なんだけど。
「……セシルはどうなんだ」
兄が俺に話を振った。図らずも母と同じようなことを聞かれる。兄に中途半端な嘘が通用しないのは身に染みてわかっている。
「私は……」
言いあぐねて、ついアルベルトの方を見る。目が合った。彼の瞳に映る自分の姿はやけに幼く見えた。
「私は求められてそこに立つという経験がありません」
前世はさておき、今世では誰かに頼られるような生き方はしてこなかった。家の中では頼りない末っ子だし、家の外でも何かを期待されるような存在ではない。
「初めて人に求められてその気持ちに応えたいと思いました。手を取ったのは間違いなく自分の意志です」
俺に助けを求めたのはベアトリクスだけど。彼女の命を救うためだったけど。アルベルトの孤独も救ってあげたいと思い始めているのを否定することはできない。
恋や愛と呼べるものでなくても、情は確かに生まれてしまったのだ。
「他人から見て相応しくなくても、彼のそばにいてあげたいと思っています」
そこにあるのは、協力者としての絆なのか、共犯者としての暗い連帯感なのか、年下の若者に向ける庇護欲なのか。
アルベルトに対する感情を過不足なく表現する言葉は見当たらなかったが、兄に向けて口にした言葉は、案外自分の耳にも嘘がないように響いた。




