29 元聖女とイレーネ
本日2回目の投稿です。
カランコロン、と軽やかな音が店内に響いた。
私はグラスを傾けたまま、何気なく入り口へと視線を向けた。
扉の向こうから姿を現したのは、予想外の人物だった。
「……あれ?」
思わず間の抜けた声が出た。
そこに立っていたのはイレーネだった。
私とサリアが馬車を下りてから、彼女は教会に戻ったはずだ。
彼女は入り口で立ち止まり、少し躊躇うように店内を見回している。
その姿を見て、私はふと違和感を覚えた。
彼女が身につけているのは、重そうな聖衣ではなく、簡素な修道服だった。
お忍び的な雰囲気がある。
それにしても、様子がおかしい。
いつもしゃんとしている背中は丸まり、足取りは重い。
今日の戦場での疲れ以上のものを背負っているというか。
イレーネの視線が、カウンターに座る私とサリアを捉える。
「フィアナ様、やはりここでしたか……」
彼女は安堵したような、それでいて泣き出しそうな、複雑な表情を浮かべた。
そして、ふらふらと覚束ない足取りでこちらへ近づいてくると、私の隣の席に力なく腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
オルセンが静かに声をかける。
イレーネは一度大きく深呼吸をしてから、顔を上げた。
「……強いお酒をください」
「ぶっ!?」
私は思わず、口に含んでいたウイスキーを吹き出しそうになった。
反対隣のサリアも目を丸くして、まじまじとイレーネの顔を覗き込んでいる。
かつて私が聖女だった頃、仕事終わりの一杯……数杯を楽しんでいた私を、不謹慎だと断罪したのは、他ならぬ彼女自身だ。
そのイレーネが、自ら進んで酒を所望するとは。
けれど、プロであるオルセンは客が何を求め、どんな心境であるかを瞬時に察する。
「どうぞ。フィアナさんと同じものです」
コトリ、と置かれたグラス。
琥珀色の液体が、店内の照明を受けて妖艶に揺らめく。
私が飲んでいるのと同じ、度数の高いウイスキーだ。
「ありがとうございます」
イレーネは震える手でグラスを掴んだ。彼女は迷いなくグラスを口元へ運んだ。
「おいおい、いきなり大丈夫か、そんな強い酒……」
サリアが心配そうに声をかけるが、遅かった。
イレーネは躊躇なく、くいっとグラスを傾け、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
「……っ!!」
直後、
「ごふっ、けほっ! う、げほっ、ごほっ……!」
盛大に咳き込んだ。
喉を焼くような強烈な酒精の刺激に、そうなるのは当然だ。
「ほら、言わんこっちゃねぇ」
オルセンがすかさずチェイサーの水を出した。イレーネはそれをひったくるようにして飲み干し、ようやく呼吸を整えた。
「はぁ、はぁ……こ、こんなに、喉が焼けるものなのですね……」
「慣れない方が飲むものではないですわ」
私は苦笑しながら言った。
しかし、彼女がそこまでして酒を求めた理由が気にかかる。
単なる好奇心ではない。何か、危うい気配を感じるのだ。
「イレーネ様、何か辛いことでもあったのですか?」
聖女と言う仕事が辛いことだらけなことを――理想だけではやっていけないことを、私はよく知っている。
だから、私はできるだけ声を柔らかくして尋ねた。
「お、なんか聖女っぽい」
横から茶々が入る。
私はジロリとサリアを睨んだ。
「サリア様、茶化して良い場面とそうでない場面がありますわ」
「う……すまん」
サリアがバツが悪そうに肩を竦める。
私は再びイレーネに向き直った。
彼女はグラスを見つめたまま、小さく唇を噛んでいる。
「それで、何があったのですか? まさか、リーフェル様に何か言われたのですか?」
あの枢機卿のことだ。どんな成果でも「お疲れ様〜」としか言わないだろう。
「そうでは、ありません……」
消え入りそうな声だった。
「恥ずかしい限りなのですが……わたくしには、聖女は無理です」
私は息を呑んだ。
あのイレーネが、このような弱音を吐くとは思わなかった。
「イレーネ様は、とても頑張っていると思いますわ。私も以前、ちょっと酷いことを言ったかもしれませんけれど」
私は素直にフォローを入れた。
大人げなく彼女を罵倒した記憶もまだそう古くない。
「ちょっと……?」
サリアがボソリと呟く。
「サリア様?」
「はいはい、黙ってますよ」
サリアが両手を上げて降参のポーズを取る。
邪魔が入ったが、イレーネは気にする様子もなく、ぽつりぽつりと語り始めた。
「いいえ、フィアナ様の仰ったことは正しいです。治療院もまともに回せず、治療薬だって満足に作れず、戦場でも……」
彼女の言葉が震え始めた。
「フィアナ様のご活躍を見て、思い知ったのです。あんな……あんな神業のような魔法、わたくしには一生かかってもできません。努力でどうにかなる差ではないと痛感しました」
ポタリ、と。
イレーネの瞳からこぼれ落ちた雫が、カウンターの天板を濡らした。
「わたくしは、無力です……」
彼女は両手で顔を覆い、肩を震わせた。
真面目で努力家ゆえに、理想が高すぎるのだ。
私だって、最初からうまくやれていたわけではない。
何度も失敗し、試行錯誤しながら、自分が壊れないようになんとか聖女をしていた。
だが、そんなことを言ったところで、今の彼女の慰めにはならないだろう。
イレーネは顔を覆ったまま、絞り出すように言った。
「もう……もう、聖女を辞めたいのです。わたくしはどうすれば……?」
すがるような問いかけに、私は迷わず即答した。
「辞めればいいと思いますわ」
その言葉があまりにも軽かったからだろう。
イレーネは、はっと顔を上げた。涙で濡れた瞳が、驚きに見開かれる。
「え……? ですが……」
「イレーネ様」
私は諭すように語りかけた。
「辛いことを無理に続けては、心身を壊してしまいますわ。だから、嫌な時は逃げても良いのです」
これは私の持論だ。
逃げることは恥ではない。生存戦略だ。
「そこに罪悪感があるのなら、まずは他の人に仕事を割り振りましょう。治療院も、薬作りも、他の聖女候補の方々でもできるのですから。一人ですべてを背負い込む必要はありませんわ」
私は人差し指を立てて見せた。
「私が聖女時代にしていたのは、そういうことです。自分にしかできないこと以外は、他人に任せるのです」
もっとも、聖女でしかできない仕事などそうそうないけれど。
しかし、今のイレーネの心には響いたらしい。
「今なら理解できます……フィアナ様は、決して楽をしようとしていたのではない、と。すべては効率と、教会という組織全体の運用を考えてのことだったのですね」
イレーネが感極まったような目で私を見る。
そこまで大げさに考えたことはない。
けれど、この誤解が、彼女が立ち直るきっかけになるなら、そのままにしておこう。
「分かっていただけて嬉しいですわ」
私は聖女のような微笑みを浮かべた。
そして、自分のグラスを持ち上げる。
「ふふ、こちら側の世界にようこそ」
イレーネがきょとんとする。
「……え?」
「こういう時は、グラスを軽くぶつけるのですわ」
私が促すと、イレーネはおずおずと自分のグラスを手に取った。
まだ中身はほとんど残っている。
チン、と。
澄んだ音が店内に響いた。
イレーネが再びグラスに口をつける。
今度はむせることなく、ちびりと飲み込んだ。
「……少し、甘いような気がします」
しばらくの間、私たちは静かに酒を楽しんだ。
イレーネの涙が乾き、頬にほんのりと赤みが差してきた頃だった。
突然、イレーネがドン! とカウンターを叩いた。
「だいたいですね! おかしいのですよ!」
彼女の目が座っている。
「治療院、薬草栽培、薬作り、騎士団との連携、書類仕事……仕事が多すぎます! あ、ダリオス様にお会いできるで嬉しいですけど」
さっきまでの殊勝な態度は消え失せ、教会への文句がどんどん出てくる。
ダリオスが好きなことは認めるのか。
「リーフェル様もそうです! いい加減な指示ばっかり! もっと具体的な指示をくださいよ、具体的な!」
「お、おう……」
サリアが若干引き気味に身を引く。
「こいつ、酒癖悪ぃな」
「良いではありませんか」
私はニヤリと笑った。
目の前で管を巻く後輩の姿が、かつての自分と重なって見える。
彼女の文句は、かつての私のそれなのだ。
「もっとお飲みなさい、イレーネ様。今日は私が奢りますから」
「飲みますとも! マスター、おかわりをいただけますか!」
「あ、おい、やめとけって」
こうして、現聖女はめでたく「聖女辞めたい」派の同志となったのだった。
次回投稿は10分後の予定です。




