第6話 - 「寺院の生き残り」①
旅の途中、響たちは、人の気配が消えた山道を進んでいた。
道は細く、両脇から伸びた木々が頭上を覆っている。
昼間なのに薄暗い。石畳はところどころ崩れ、隙間から雑草が伸びていた。
響は歩きながら周囲を見回す。
妙な場所だった。
山の中なのに、生き物の気配が薄い。虫の羽音もない。鳥も鳴かない。
風だけが、木々の間を細く抜けていく。
その風すら、どこか冷たかった。
ふと響は、足元の石段を見る。
古い。
かなり古いはずなのに、妙に“崩れ方”が綺麗だった。
自然に放置された廃墟なら、もっと滅茶苦茶になるはずだ。
木の根が石を押し上げ、壁を突き破り、蔦が建物を覆い尽くす。
でもここは違う。
倒れた石灯籠は、途中で横倒しになったまま。
黒く焼けた鳥居も、崩れず“燃えた形”を残している。
石塀には大きな亀裂が走っているのに、その隙間へ草がほとんど入り込んでいない。
まるで、何か巨大な力が一瞬でここを壊して、その直後に人だけ消えたみたいだった。
風が吹く。
かすかな金属音。
音のする方を見ると、石段の先にある古い門の残骸で、風鈴が揺れていた。
赤錆だらけなのに、まだ落ちずに残っている。
――ちりん。
小さな音が、山の静けさへ吸い込まれていく。
やがて木々が開けた。
その先に、巨大な寺院跡が現れる。
響は思わず立ち止まった。
広い。
山ひとつを削って作ったみたいな規模だった。
長い石段。
反り上がった屋根。
赤い柱。
崩れた回廊。
東方風の建築群。
だが、その全てが黒く焼けている。
本堂は中央から崩れ、天井には巨大な穴。
壁には煤。
柱には、鋭いもので引き裂かれたみたいな傷跡。
そして奇妙なのは、焼け跡の色だった。
普通の古い焼け跡なら、もっと雨で色が薄くなる。
けれどここの焦げ跡は、妙に黒い。
まるで火だけが、昨日までそこに残っていたみたいだった。
響は喉の奥が重くなる。
説明されなくても分かる。
ここで何かがあった。
しかも、相当酷い何かが。
境内には、白い羽根が散らばっていた。
鳥のものじゃない。
大きい。人の腕ほどある羽根。
そのいくつかは焼け焦げ、半分炭みたいに黒くなっている。
響はしゃがみ込み、そっと一枚へ触れた。
瞬間、羽根が崩れる。さらさらと、白い粉になって指の間から零れ落ちた。
軽い。
あまりにも軽くて、命だった感じがしない。
響は思わず顔を上げる。
静かだった。
静かすぎる。
風だけが、焼けた回廊を抜けていく。
まるでこの場所だけ、山から切り離されてしまったみたいだった。
前を歩いていたカノンは、何も言わなかった。
ただ、寺院を見ている。
いや。
響はそこで初めて気づく。
彼女はここへ来てから、一度も周囲をちゃんと見ていない。
焼けた柱も。
崩れた回廊も。
地面に散らばる羽根も。
視界へ入っているはずなのに、見ていない。
見ないようにしている。
まるで、少しでも目を向けたら、何かが壊れてしまうみたいに。
――ここだ。
彼女の故郷。
その瞬間だけ、響の胸の奥で何かが軋んだ。
知らないはずなのに。
この場所を、知っている感覚がした。
――ちりん。
古い門の残骸で、風鈴がもう一度鳴った。
その音を聞いた瞬間。
カノンの足が止まる。
本当に一瞬だった。
他の人間が見れば、ただ歩調が乱れた程度にしか見えない。
けれど響には、それが妙にはっきり分かった。
進めなくなったんだ、と。
山吹色の瞳は、崩れ落ちた本堂の奥を見ている。
その目だけが、今までの近衛騎士団長のものじゃなかった。
響の胸の奥で、何かが微かに軋む。
自分が気づいたのか。
それとも。
自分の中にいる“王”が、気づかせたのか。
響が口を開きかけた、その時。
カノンは小さく息を吐いた。
まるで何かを振り払うみたいに。
そして何事もなかった顔で、再び歩き出した。
本堂に向かって。
風だけが、崩れた本堂を抜けていく。
その時だった。
――ぞわり。
響の背筋を、冷たい感覚が撫でた。
気配。
しかも一つじゃない。
反射的に振り向くが、誰もいない。
崩れた石塔。
焼けた木々。
風。
それだけなのに。
“見られている”。
森そのものが、こちらを覗き込んでいるみたいな圧迫感。
カノンの表情が変わる。
背中へ背負った大剣の柄へ、静かに手をかける。
次の瞬間。
――しゃん。
鈴の音。
響が顔を上げる。
木々の奥に、白い影が立っていた。
一人ではない。
いつからそこにいたのか分からないほど静かに、灰色の耳を持つ者たちが、木々の間に佇んでいる。
長い兎耳。
灰色の髪。
白い仮面。
黒と白を重ねた寺院装束。
袖や帯には、無数の札と鈴。
手には細い杖や、骨で作られた槍。
風が吹くたび、鈴が小さく鳴った。
けれど、不思議と生き物の気配がしない。
響の知っている“獣人”という言葉から想像するものとは違っていた。
愛嬌も、温かさもない。
灰色の毛並みを持つウサギの獣人。
なのにその姿は、獣というより、死者を見送る巫女たちに近い。
白い仮面の細い目元から覗く瞳は、どれも淡い灰色だった。
灰耳族。
寺院と共に生きていた、人外の民。
生者の気配が薄い。
だから森へ立っていても、直前まで存在に気づけない。
その中の一人が、ゆっくり響へ顔を向ける。
片側だけ仮面で覆われた顔。
淡い灰色の片目。
長い兎耳が、風を拾うように微かに揺れる。
他の灰耳族と同じ装束をまとっているのに、その女だけは少し違って見えた。
怒っているわけではない。
怯えているわけでもない。
焼け跡の中で、ずっと何かを待っていた亡霊みたいだった。
彼女が持つ鈴杖が、風に揺れて小さく鳴る。
「……いた」
空気が張り詰める。
次の瞬間、灰耳族たちが一斉に武器を抜いた。
札付きの短刀。
骨製の槍。
呪印の刻まれた弓。
その切っ先が、真っ直ぐ響へ向く。
響の喉が鳴る。
彼らの敵意は明確だった。
“王”。
その器へ向けられた殺意。
張り詰めた空気の中、灰耳族たちは武器を向けたまま一歩も動かない。
森そのものが、息を止めているみたいだった。
その時。
一人だけ、静かに武器を下ろした影があった。
さっき響を見た、片面の仮面の女だった。
彼女は響ではなく、カノンを見ている。
その視線に敵意はない。
怒りでも、憎しみでもない。
もっと別の感情だった。
響は一瞬、その目をどこかで見た気がした。
焼け跡に立つ人間を見る目じゃない。
――墓を見つめる時の目だ。
灰耳族の女――ユラは、静かに鈴杖を下ろす。
しゃらり、と小さな音。
その音だけが、妙にはっきり耳へ残った。
彼女はカノンを見つめたまま、小さく呟く。
「……まだ知らないんだね」
空気が止まる。
カノンの肩が、ぴくりと揺れた。
初めてだった。
響はこの旅で、彼女がここまで分かりやすく動揺するのを見たことがない。
山吹色の瞳が細くなる。
呼吸が浅い。
まるで、ずっと避け続けていた傷口を、突然指で抉られたみたいだった。
ユラは続ける。
「皆殺しにされた一族の中で、お前だけなぜ残されたのか」
その瞬間、カノンの顔色が変わる。
血の気が引く。
響は反射的に彼女を見る。
だがカノンは何も答えない。
答えられない。
代わりに、背中の大剣の柄をぎり、と握り締めた。
カノンの呼吸が乱れる。
その瞳は、わずかに揺れていた。
ユラはそんな彼女を見つめたまま、静かに言葉を続けようとする。
「あの王は、お前の――」
その瞬間、カノンが動いた。
鈍い金属音。
背中の大剣が、一瞬で抜き放たれる。
巨大な刃が、焼け跡の空気を裂いた。
彼女はユラへ切っ先を向ける。
「――それ以上喋るな」
低い声だった。
響はその声に驚く。
感情が乗っている。
怒り。焦り。怯え。
この旅の中で、カノンはずっと冷静だった。
どれだけ危険な状況でも、感情を表へ出さなかった。
なのに今、彼女は明らかに動揺している。
ユラは黙った。
仮面越しでも分かる。
その目は、少しだけ悲しそうだった。




