第5話 - 「知らない記憶」②
検問を抜けた後、一行は宿場町へ立ち寄った。
夕暮れ時の市場は、本来なら旅人や商人で賑わう時間らしい。
だが今は、どこか空気が重かった。
露店の数も少ない。
並んでいる野菜はどれも小ぶりで、果物は半分以上傷んでいる。
値札だけがやけに高い。
通りを歩く人々の顔にも、余裕がなかった。
カノンは慣れた様子で市場を見回し、干し肉や保存食を確認していく。だが。
「……高くないか、それ」
響は思わず口を挟んだ。
カノンが手に取っていた干し肉の値段を見て、眉をしかめる。
店主の男が嫌そうに顔を上げた。
「最近は輸送路が危険でしてね」
「北街道の崩落だろ」
響が何気なく返す。店主が止まる。
「……あ?」
響自身も、口を開いてから違和感を覚えた。
頭の中へ、見たこともない地図が浮かぶ。
崩れた山道。迂回路。河川輸送。物流量。
自然と続きが口をついた。
「南水路経由なら輸送費はそこまで上がらないはずだ」
沈黙。店主の顔が引きつる。
「……なんで知ってる?」
響は言葉に詰まる。
分からない。考えたわけじゃない。
ただ、“知っていた”。
まるで昔から、この国の物流事情を把握していたみたいに。
気味の悪さが、じわりと背筋を這う。
その横でカノンだけは何も言わなかった。
ただほんの少しだけ視線を伏せる。
店主は急に気まずそうな顔になり、慌てて値段を書き換え始めた。
「……ま、まあ、旅人さんなら少し負けますよ」
「最初からそうしろよ」
響は呆れながら言う。
その様子を見て、カノンが小さく首を傾げた。
「交渉に慣れているのですね」
「いや普通だろこれくらい」
「私は苦手です」
真顔だった。
響は思わず吹き出す。
「あんた近衛騎士団長だろ」
「剣で解決できない話し合いは難しいです」
さらっと恐ろしいことを言う。
響は苦笑しながら、焼きたての平パンを受け取った。
まだ少し温かい。
一口齧る。固い。
ぼそぼそしている。
「うっわ……」
「美味しくありませんか?」
「いや、なんつーか……日本のコンビニって偉大だったんだなって……」
カノンは意味が分からないという顔をした。
その横顔を見ながら、響は少しだけ肩の力を抜く。
こうしていると、普通に旅をしているみたいだった。
胸の奥で、別人の記憶が蠢いていることさえ忘れられるくらいに。
その夜。
一行は宿場町の小さな宿へ泊まることになった。
木造二階建ての古い宿だった。
廊下は軋むし、壁も薄い。
けれど異世界へ来てからずっと野営続きだった響にとっては、ベッドがあるだけで十分ありがたい。
部屋へ入った瞬間、響はそのままベッドへ倒れ込む。
「文明……」
カノンが荷物を整理しながら、少し不思議そうな顔をした。
「?」
「いや、ベッド最高って話」
カノンはしばらく考え込み、静かに頷く。
「……分かります」
その返答が妙に真面目で、響は少し笑ってしまった。
窓の外では、宿場町の灯りがぽつぽつ揺れている。
市場にいた時は気づかなかったが、夜になると町は妙に静かだった。
酒場の笑い声も少ない。
人々が、早く眠って空腹を誤魔化しているみたいな静けさだった。
翌朝一行は再び王都街道を進み始める。
空は薄曇り。乾いた風が吹いていた。
最初は普通の街道だった。
荷馬車が行き交い、旅人の姿もある。
だが、王都へ近づくにつれて少しずつ景色が変わっていく。
畑は痩せ、作物は黄色く枯れていた。
水路の水位も低い。
途中で見かけた水車は止まり、軋んだまま動いていなかった。
響は眉をひそめる。
「……思ったよりヤバくないか、この国」
カノンは少し黙る。
山吹色の髪が、風に揺れた。
「王都周辺は、まだ良い方です」
その声は静かだった。
だからこそ、余計に重い。
さらに進むと、街道を歩く人々の姿が増え始める。
痩せた老人。荷物を抱えた母親。子供の手を引く男。
どの顔にも疲労が滲んでいた。
難民。
響には、そう見えた。
彼らは皆、王都の方角へ向かっている。
「なんでみんな王都に?」
「配給です」
カノンが答える。
「地方では、もう食糧管理が崩れ始めています」
響は言葉を失う。
風が吹く。
遠く丘の上に立つ巨大な光樹が見えた。
白く発光しているはずの樹は、ところどころ黒く枯れ始めている。
まるで世界そのものが、静かに病気になっているみたいだった。
昼を過ぎた頃、一行は小さな村へ辿り着いた。
村というより、半ば壊れかけた集落だった。
家々の壁は痩せ細り、屋根には穴が空き、畑は土色に死んでいる。
風が吹くたび、乾いた土が舞った。
人の気配はある。なのに妙に静かだった。
活気がない。生活の音がしない。
その理由は、村の中央を見た瞬間に分かった。
広場に長い列ができていた。
配給。
大鍋の前に兵士が立ち、薄い粥を配っている。
粥の匂いが薄い。
水を温めただけみたいな匂いだった。
並んでいる人々は、誰も喋らない。
怒鳴る気力すら、残っていないみたいだった。
響は息を呑む。
痩せている。全員。頬はこけ、目だけが大きい。
子供ですら、泣く体力を失い、その腹は不自然に膨らんでいた
空気の中に、飢えの匂いがある。
汗とも病気とも違う。
身体が削れていく時の、嫌な臭気。
響の喉が小さく鳴る。
日本では見たことがない光景だった。
その時、服の裾が小さく引っ張られた。
振り向く。子供だった。
七、八歳くらいの男の子。
ぼろ布みたいな服を着て、響の手元をじっと見ている。
さっき市場で買った平パン。
その視線は、あまりにも真っ直ぐだった。
欲しい、と。
声にしなくても分かるくらいに。
響は少し迷う。腹は減っていた。
でも。
目の前の子供の方が、よほど限界に見える。
響は溜息をつき、パンを半分に割った。
「……食う?」
子供の目が見開かれる。
だがすぐに、怯えたみたいに周囲を見る。
近くの大人たちも、こちらを警戒していた。
奪われる。
そういう空気だった。
響はしゃがみ込み、無理やり子供へパンを押し付ける。
「取らねえから」
子供は恐る恐る受け取った。
そして夢中で齧りつく。
あまりにも必死な食べ方だった。
噛みちぎった大きなかけらを丸呑みしている。
響はそれを見て、胸の奥が嫌に重くなる。
その時だった。
広場の奥で怒号が上がる。
「ふざけるな!」
男が兵士へ掴みかかっていた。
「これだけか!?」
「子供がいるんだぞ!」
別の女も叫ぶ。
「三日食べてないのよ!」
兵士たちが慌てて抑える。だが民衆の目が危ない。
理性より空腹が勝ち始めている目だった。
響たちはその騒ぎの横を通り抜けようとする。
だが響は足を止めた。
喧騒を見つめるその横顔が、ほんの一瞬だけ冷える。
カノンが小さく眉を寄せる。
その時だった。
近くにいた配給係の兵士が、困り切った顔でこちらを見る。
「……団長、どうすれば」
助けを求めるような声。
カノンが口を開くより先に響が、何気ない調子で言った。
「配給を止めろ」
兵士が固まる。
響自身も、自分が喋った感覚が薄かった。
考える前に、答えだけが口から出た。
響は広場を見たまま続ける。
「一度完全に飢えさせろ」
声は静かだった。怒鳴りも威圧もない。
本当に、当たり前の判断を述べているだけみたいな口調。
「恐怖が勝てば、統率は戻る」
風が吹く。
広場の怒号が、一瞬だけ遠く感じた。
兵士たちは言葉を失っている。
響はそこで初めて、自分の言葉を理解する。
背筋が冷えた。
……今、なんて言った?
そんな命令、自分なら絶対にしない。
飢えれば従う?何だそれ。
まるで、人間を数字みたいに――
響の喉が小さく鳴る。その隣で。カノンは何も言わなかった。
だが横顔が、ひどく強張っていた。
彼女は知っている。今の判断が、誰の思考に酷似しているのかを。
その夜、響はまた夢を見る。
薄暗い玉座の間だった。
高い天井。白い柱。色褪せた赤絨毯。
静かな空間なのに、空気だけが妙に重い。玉座には、一人の男が座っている。
白髪が差し込まれた黒髪。三十代半ばほど。鋭い目をした、威圧感のある男。
けれどその背中は、どこか疲れて見えた。
夢の中の響は、またその男の視界を共有していた。
玉座の下には臣下たちが並んでいる。
宰相。将軍。文官。聖職者。
皆、頭は下げている。形の上では礼を尽くしている。
だが分かってしまう。空気で。視線で。沈黙で。
“武しか能がない王”
誰も口には出さない。でも皆、そう思っている。
王は報告書へ目を落とす。
税収低下。水脈異常。光樹の枯死。
理解できない単語ばかりだった。
本当は、何一つ分かっていない。
なのに。王だから、理解している顔をしなければならない。
弱みを見せれば終わる。
誰かに縋れば、“無能な王”になる。
その恐怖だけが、胸の奥で膨らみ続けている。
気づけば、拳を強く握り締めていた。
爪が掌へ食い込む。それでも王は笑う。
いつもの、余裕のある王の顔で。
王の発言に臣下たちが頭を下げる。
誰も反論しない。誰も、王へ本音を言わない。
けれど。夢の中の響には分かってしまった。
その声は、全然、大丈夫じゃなかった。
張り詰めすぎて、今にも壊れそうな人間の声だった。
そこで夢が途切れる。響は目を覚ました。
夜明け前。胸が苦しい。呼吸が浅い。
頬に違和感があって、触れると濡れていた。
響はそこで初めて、自分が泣いていたことに気づく。
意味が分からなかった。同情なんてしたくない。あれは自分じゃない。知らない王だ。
なのに。胸の奥へ残っている。
あの、必死に王であろうとしていた男の苦しさが。




