第5話 - 「知らない記憶」①
王都への道中、響の中で、“侵食”は確実に進んでいた。
最初は小さな違和感だった。
道端の石碑。崩れかけた古代文字。
カノンですら読むのに時間がかかっていたそれを、響は自然に理解してしまう。
意味を“読んでいる”というより、最初から知っていた感覚に近い。
「……なんで読めんだ、俺」
自分で呟きながら、響は薄気味悪さを覚える。
それだけじゃない。
地図を見れば、初めて来たはずの土地の地形が頭へ浮かぶ。
どこに川があるか。どこに古い砦があるか。どこが崩れやすい地盤か。
まるで、長年そこを統治してきた人間みたいに理解できてしまう。
さらに時折、知らない記憶が、呼吸みたいに自然に流れ込んできた。
王城の廊下。軍議。雪の戦場。部下の名前。敵国の癖。
響は頭を押さえる。
最近、自分の思考に“ノイズ”が混ざる。
ぼんやりしている時ほど酷い。
自分じゃない誰かが、脳の奥で静かに息をしているみたいだった。
その日の夕方、一行は小さな宿場町へ立ち寄る。
街の入口には、王国騎士団の検問があった。
騎士の一人が、カノンを見るなり露骨に顔をしかめる。
「……片翼か」
小さな声。だが聞こえるように言った。
周囲の空気が少し冷える。
カノンは何も反応しない。
慣れている。そういう態度だった。
だが響の胸の奥で、何かがざらりと軋んだ。
次の瞬間、気づけば響は、騎士の前へ立っていた。
自分でも、なぜ動いたのか分からない。
騎士が眉をひそめる。
「なんだ、お前――」
響は低い声で言う。
「頭を下げろ」
空気が止まった。
響自身が、一番驚いていた。
今の声、今の言い方。まるで別人だった。
検問の騎士が眉をひそめる。若い兵士だ。まだ二十代前半くらい。
響を睨み返しながら、鼻で笑う。
「……なんだお前」
「旅人風情が」
響の胸の奥が、じわりと熱を持つ。
違う。これは自分の怒りじゃない。
もっと重く、冷たい感情。
「取り消せ」
自然と口が動く。
兵士も苛立ったように一歩前へ出る。
「は? 片翼を片翼って言って何が悪い」
「どうせ奇跡も使えねえ欠陥品だろ」
その瞬間、響の視界が一瞬だけ狭まった。心臓が低く脈打つ。
“跪かせろ”。
頭の奥で、誰かが囁く。
ぞっとするほど自然に、兵士の喉を掴むイメージが浮かぶ。
空気が張り詰めた。だがその時。
「……おやめください」
カノンが二人の間へ入る。静かな声だった。彼女は兵士を見ない。
響へ向けて、穏便に収めるような視線だけを送る。
「お気になさらず」
慣れていますから。
そう続けようとしたのが、響には分かった。
その瞬間。響はハッと我に返る。
違う。今のは危なかった。妙な怒りに飲まれかけていた。
響は乱暴に頭を掻きながら、わざと苛立った大学生みたいな口調へ戻す。
「いや、でもさ」
兵士を指差す。
「近衛騎士団長にそんな陰口叩いていいのかよ」
沈黙。兵士の顔色が変わる。
「……は?」
響は顎でカノンを示す。
「この人、近衛騎士団長だぞ」
兵士の目が、ゆっくりカノンへ向く。
白い軍服。腰の紋章。そして大剣。
数秒遅れて、兵士の顔から血の気が引いた。
「……え」
カノンは小さく溜息をつく。
どうやら、彼女は旅装束の上に外套を羽織っていたせいで、身分まで見られていなかったらしい。
兵士は慌てて姿勢を正す。
「し、失礼しました!」
勢いよく頭が下がる。周囲の兵士たちまでざわつき始める。
響はその様子を見ながら、ようやく胸の奥の熱が引いていくのを感じていた。
……今、本気で怒りすぎた。たかが陰口で。自分らしくない。
だが。隣で頭を下げられているカノンを見た瞬間、胸の奥でまた微かに何かが軋む。
その感情が自分のものなのか、王のものなのか。
響には、もう少しずつ分からなくなり始めていた。




