第4話 - 「近衛団長カノン」
街道沿いの野営地。
夜風が草を揺らし、焚き火の火が小さく爆ぜる。
響はスマホを取り出しかけて、圏外表示を見て諦めた。
たった一日しか経っていないはずなのに、
日本での生活が妙に遠く感じた。
向こうでは大学の課題とか出てるんだろうな、なんて考えていると。
向かい側でカノンが大剣を静かに布で拭っていた。
昼間の戦闘で付着した黒い粒子を、慣れた手つきで落としていく。
巨大な剣なのに、彼女の手の中では妙に馴染んで見えた。
その横顔は、戦っている時よりずっと静かだった。
「……そういえばさ」
響の言葉にカノンの手が少し止まる。
響は焚き火へ薪を放り込みながら言った。
「昼間のああいうの、もっと言い返せばいいのに」
火の粉が舞う。
「片羽だの何だの。あんた強いんだから、別に怖くもないだろ」
少し乱暴な言い方だった。
でも響としては、純粋な疑問だった。
「……ああいうふうに言われるのは、もう慣れています」
響は顔を上げる。
カノンは焚き火を見たまま続けた。
「昔からでしたから」
響は少し眉をひそめる。
「……ムカつかねえの?」
カノンは少しだけ考える。
そして小さく笑った。
「昔は」
静かな声だった。
「子供の頃は、よく石を投げられました」
まるで他人事みたいに言う。
響の顔が曇る。
だがカノン自身は、
そこに大きな感情を乗せていなかった。
恨みを語るというより、
もう遠い昔を確認するような口調。
「空も飛べない。奇跡も使えない。
皆、そう言っていました」
そう言って、彼女は自分の片翼へ視線を落とす。
白い羽が、焚き火の橙色に染まっている。
「“出来損ない”だと」
その言葉に、強い怒りはなかった。
もう傷が癒えたというより、
長い時間をかけて身体の一部になってしまった傷跡みたいな響きだった。
この時響は初めて、カノン自身について知る。
彼女はリュミエル聖王国近衛騎士団長。
だがその肩書きがあってなお、周囲から彼女を見る目は冷たい。
片翼になる前から、カノンは異端だった。
白銀と金、左右で色の違う翼を持って生まれたからだ。
神に愛されなかった半端者。
祝福から漏れた存在。
人々はそう囁いた。
片翼になった後は、なおさらだった。
道を歩けば視線を向けられ、子供には石を投げられ、
大人たちは聞こえるように囁いた。
――不吉だ、と。
近衛騎士団長になった今でも、その視線は完全には消えていない。
畏れと、嫌悪と、好奇の混ざった目。
それらをカノンは、もう慣れたものとして受け流していた。
そんな彼女を唯一認めたのが先王だった。
まだカノンが幼かった頃。
寺院へ視察に来た男は、訓練場の隅で木剣を振っていた彼女を見つけた。
後に王となる男は、当時まだ騎士団長だった。
周囲の子供たちは空を飛び、光を纏い、
奇跡を使っている。
その中でカノンだけが、泥だらけになりながら地面で剣を振っていた。
飛べないから。奇跡が使えないから。
せめて剣だけでも、と必死だった。
だが他の子供たちは笑っていた。
「色違い羽のくせに」
「地べた這ってる」
「みっともない」
カノンは何も言い返さなかった。
ただ唇を噛んで、木剣を握り締めていた。
その時。
男が訓練場へ降りてきた。
まだ若かった頃の王。
長身。
戦場帰りみたいな鋭い目。
夜みたいな黒髪の中に、白い一房だけが混じっていた。
笑う時だけ、年相応に少年っぽかった。
王は周囲を一瞥し、地面に転がっていた木剣を拾う。
そしてカノンへ言った。
「飛べないのか?」
カノンは俯いたまま頷く。
王は少し考えてから。
突然、地面を蹴った。
爆発みたいな踏み込みだった。
空を飛ばない。
翼も使わない。
ただ脚力だけで、一直線に訓練人形との距離を潰す。
低い姿勢。
滑るような移動。
踏み込みの勢いをそのまま乗せて、木剣が横薙ぎに振り抜かれる。
木材が破裂するようなけたたましい音が轟く。
訓練人形がまとめて吹き飛んだ。
カノンの目が見開かれる。
王は振り返る。
その顔には、当然みたいな表情しかない。
「飛べないなら、地を駆ければいい」
風が吹く。
黒い外套が揺れる。
空を飛ぶ騎士たちよりも速く、低く、荒々しく地面を裂くような剣。
その姿から、カノンは目を離せなかった。
初めてだった。
“飛べない自分”を、欠陥じゃなく、
戦い方の違いとして見てくれた人間は。
王は木剣を放り投げる。
王はカノンを見ていた。
周囲の誰より長く。
まるで、何かを見つけてしまったみたいに。
「お前、才能あるぞ」
その言葉を、カノンはずっと忘れられなかった。
だが響は、話を聞きながら小さな違和感を覚えていた。
カノンは王を語る時、確かに嬉しそうだった。
誇らしそうですらある。
なのに。
時折ほんの一瞬だけ、その表情へ妙な影が差す。
焚き火の向こうを見つめる横顔が、どこか苦しそうに見えた。
まるで大切な思い出を語っているはずなのに、
同時に傷口まで開いてしまっているみたいに。
響は少し迷ってから聞く。
「……そんな好きだったんだな、その王様のこと」
カノンは一瞬だけ目を伏せる。
山吹色の髪が、焚き火の光を受けて揺れた。
「はい」
返事は即答だった。
けれどその声は、どこか静かすぎた。
「世界で一番、尊敬していました」
その言葉のあと、ほんの僅かに間が空く。
まるで、続きを飲み込んだみたいに。
響は妙に胸がざわつく。
理由は分からない。
ただ、カノンが語る“王”という存在が。
英雄なのか。
呪いなのか。
まだ判別できない気がした。
――
深夜の野営地には、薪の爆ぜる音だけが響いていた。
遠くで夜鳥が鳴いている。
響は寝転がったまま、ぼんやり星空を見上げていた。
異世界の空は、日本より星が多い。
知らない星座ばかりなのに、妙に近く感じる夜空だった。
少し離れた場所では、カノンが片翼を静かに整えていた。
乱れた羽根を指先で梳き、折れかけた羽を丁寧に抜いている。
戦闘の時とは違う、どこか繊細な仕草だった。
山吹色の髪が、焚き火の光を受けて柔らかく揺れる。
響は少し迷ってから口を開く。
「……王様って、カノンにとって何だったんだ」
カノンの手が止まる。
沈黙。
焚き火が、ぱちりと小さく弾ける。
カノンはすぐには答えなかった。
俯いたまま、白い羽へ触れる指先へ少しだけ力が入る。
まるでその問いに答えるだけで、胸の奥の何かへ触れてしまうみたいに。
やがて彼女は、小さく息を吐いた。
そして、ほんの少しだけ笑う。
寂しそうな、でも優しい笑い方だった。
「……私を、見つけてくれた人です」
静かな声だった。
焚き火の火が、彼女の横顔を揺らしている。
「皆、空を飛べるのが当たり前でした。奇跡を使えるのが普通でした」
白い羽へ視線を落とす。
「だから私は、ずっと“足りないもの”でした」
その言い方が、妙に痛かった。
まるで、昔から何度も何度も、そう言われ続けてきたみたいで。
カノンは少しだけ目を細める。
「でもあの人だけは違った」
風が吹く。
山吹色の髪が、静かに揺れる。
「飛べないなら、地を駆ければいいって」
その言葉を思い出した瞬間だけ。
彼女の声が、少しだけ柔らかくなる。
「初めてでした。飛べなくても、お前はお前だと、言われたのは」
響は何も言えなかった。
カノンは焚き火を見る。
揺れる炎の向こうへ、もういない誰かを見るみたいに。
そして消え入りそうな声で言う。
「私が剣を振っていい理由を、初めてくれた人でした」
その言葉の中には。
救われた記憶も。
憧れも。
感謝も。
執着も。
失った痛みも。
全部混ざっている気がした。
響の胸が、妙にざわつく。
なぜだか分からない。
ただ。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で誰かが静かに傷ついた気がした。
――
その夜、響は夢を見る。
暗い。
ひどく暗い夢だった。
鼻を突くのは、焼けた木と血の匂い。
視界の先で、巨大な神殿が燃えている。
白い柱。
朱色の梁。
東方風の静かな建築。
その全てを、炎が呑み込んでいた。
悲鳴が聞こえる。
大人。子供。何人もの声。
けれど夢の中の響は、その声へ足を止めない。
いや、止められない。
重い足音。甲冑の音。剣を引きずる音。
まるで自分じゃない誰かの身体で、その地獄を歩いている。
視界の端で、白い羽が散った。
そして。
まだ幼さの残る年頃の少女がいた。
十五、六ほど。
山吹色の髪。
涙に濡れた顔。
白銀と金色、左右色の違う翼を大きく広げ、誰かを庇うように立っている。
その姿は震えていた。
怖いはずなのに。
それでも剣を捨てていない。
夢の中の響は、その光景を見た瞬間、胸の奥を強く掴まれる。
――綺麗だ。
なぜか、そんな感情が流れ込んでくる。
自分の感情じゃない。
もっと重く。
もっと苦しく。
もっと執着じみた感情。
次の瞬間。
黒い影が少女へ迫る。
いや、違う。
黒い影じゃない。その翼を掴んでいたのは、“こちら側”だった。
夢の中の響は、その場に立っている。
剣を握っている。
止めろ、と叫びたかった。
なのに身体は動かない。
伸びた手が、金色の翼を掴む。
その瞬間、胸の奥へ強烈な感情が流れ込んできた。
嫌だ。
奪いたくない。
なのに手が離れない。
まるで自分で自分を押し潰してでも、何かを成し遂げなければならない人間の感情。
少女の絶叫。
白い羽根が舞う。
肉の裂ける音。
鮮血。
引き裂かれた黄金の翼が、炎の中へ投げ出される。
少女は崩れ落ちる。
泣いていた。
壊れるみたいに。
それでも、こちらを睨んでいた。
憎しみと、悲しみと。
理解できない痛みを混ぜた目で。
その視線を、夢の中の“誰か”は、
ただ静かに受け止めていた。
苦しそうに。
泣きそうに。
今にも謝りそうな顔で。
なのに。
それでも手を止めなかった。
そこで響は目を覚ます。
呼吸が荒い。
全身が汗で濡れている。
夜明け前。
薄暗い野営地。
焚き火はもう消えかけていた。
響は自分の手を見る。
震えている。
指先が、冷たかった。
胸の奥に残っている。
あの悲鳴が。
何より怖かったのは。
あの“誰か”を、少しだけ理解してしまった自分だった。




